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日常生活(ブログ)

アスレティックトレーナーコース

部谷祐紀先生の素顔に迫ります(その2)

こんにちは、履正社国際医療スポーツ専門学校 広報部Mです。

先週に引き続き、アスレティックトレーナーコースのブログにお邪魔して、部谷(ひだに)先生にクローズアップするインタビューを掲載します。

第2回は、先生のこれまでのキャリアについて。アスレティックトレーナー、鍼灸師、管理栄養士と3つの顔を持つ部谷先生は、どんな道のりを歩んで来られたのでしょうか。

部谷先生のプロフィールは こちら


「日の丸を背負った仕事がしたくて、急な仕事でも手を挙げました」。

――先生はまず、鍼灸師の資格を取得したと聞きました。それまでの経緯を教えてください。

障がい者支援をしていた祖父の影響もあり、高校時代は「誰かを助ける仕事をしたい」と漠然と考えてはいました。また、高校卒業までは陸上4×400mリレーの選手で、そこに青春をかけていたんです。でも、最後の大会前に腰を痛めてしまい、病院に行ってもあまり良くならなくて。それで親が「すごい鍼の先生がいるらしい」と、治療院に連れて行ってくれました。そうしたら、すごく良くなった。「あんなに痛かったのに走れる!」とびっくりしました。私に替わる交替要員も決まっていたけれど「いけます!」と、大会に出してもらったんです。

結果、チームでも個人でもベストの記録が出て、有終の美を飾れたことに感動しました。

この経験を機に、「鍼でスポーツ選手を助ける仕事をしてみようかな」と思ったんです。

履正社高校陸上部にて、AT実習中。

――それで、鍼灸師を目指したんですね。

なのですが、親には言えませんでした。親は大学に行くと思っていたし、(鍼灸師への)職業理解も得られず、鍼灸が学べる学校も当時、地元広島の周辺にはなかったからです。結局受験をして、大学も決まったんですが……それでも、鍼灸師になりたいという思いが強くなり、親に話したら猛反対されました。なんとかわかってもらおうとお世話になった鍼灸の先生のところに親を連れて行ったら、その先生が説得してくださいました。でも、もうすでに2月。「今から入れる鍼灸の学校」を慌てて探し、東京の専門学校の夜間部にすべり込んだんです。親には啖呵を切ってきたので、絶対に辞められないと思って上京しました(笑)。

――どんな学生生活でしたか。

学校が渋谷のど真ん中にあり、まぁよく遊びました(笑)。トレーナー志望の学生も多く、“自分がやりたいのはトレーナーの仕事なのかもしれない”と考えるようになりました。卒業後、「青山学院大学にトレーニングセンターがあって、トレーナーになりたい人が勉強しに集まってくるよ」と同級生に教えてもらい、通い出したんです。そこで師匠となるアスレティックトレーナーの吉本完明先生に出会い、青山学院大学ラグビー部のアシスタントトレーナーをさせていただくところから私のトレーナー人生が始まりました。

――トレーナーデビューですね。

ラグビー部のトレーナーをはじめて2~3年が過ぎたころ、「2週間後に半年間、ヨーロッパに行ける人はいないか」という話が流れてきました。スキーのアルペン競技日本代表トレーナーの募集だったんです。「日の丸を背負った仕事ができる」とチャンスに感じる一方で、出発は2週間後、半年帰って来られない。悩みましたが、力不足は重々承知のうえで「ラグビーのトレーナー経験があるので外傷への対応やリハビリはできます。手を挙げてもいいですか」と師匠に相談したら了承してくださり、スキー連盟まで面接に行きました。ただ……それまでスキーをやったことがなかったんです。連盟の方に「雪山の、標高の高いところに行くんですよ。滑落したら、死にますよ?」と念を押されましたが(笑)、大丈夫です、と言い切って参加しました。

――なんというビッグチャレンジ!

現地に到着したら私がまったく滑れないので、まず選手に驚かれました。練習はゴンドラを乗り継いで、雲の上も越えた頂上近くに行くことからスタートします。トランシーバーを渡され、「選手に何かあったら来てください」と言われるんですが、寒さでガタガタ震えながら待機していました(笑)。同じ山で練習していた海外のナショナルチームに、「ジャパンチームに滑れない奴がいる!」と、指をさされて笑われました。「来年、ワールドカップで待ってるぜ~。スキー練習して来いよ~」って言われましたよ。

――有名人じゃないですか(笑)。

そんなスタートでしたが選手やスタッフの方々ともだんだん仲良くなり、皆川賢太郎さん(当時のトップ選手でトリノオリンピック4位。現・全日本スキー連盟競技本部長)にはすごく可愛がってもらいました。練習が終わると皆川さんが自ら僕をおんぶして、山を下りてくれることがあって。あの皆川さんがおんぶですよ。畏れ多いわ、すごいスピードで山を下りるわで恐怖の時間でした(笑)。

――(笑)。しっかり代表選手のサポートを務めたんですね。その後はどうされたんですか。

帰国後、今度はU-18男子バスケットボール日本代表チームのトレーナーの仕事をいただきました。インドで開催されるFIBAアジア男子ジュニア選手権のために帯同したのですが、当時U-18男子日本代表チームは(アジアで)トップクラス。当然、期待されていました。それなのに……現地の食事が合わず、選手がみんな体調を崩してしまったんです。散々たる結果で帰国するはめになりました。食事が原因で全部だめになってしまい、とてもくやしい思いをした。この時に、「やはり、食事だ。栄養の勉強をしよう」と思い立ち、25歳で東京農業大学の栄養科に入学しました。

――管理栄養士になるためですね。

栄養科で勉強しながら、在籍する大学や中学・高校のバスケチームのトレーナー等もして、2足のわらじを履いていました。アスレティックトレーナーの受験資格の推薦をいただいた相撲に関わったのもこの時です。東京農業大学は相撲力士をたくさん輩出する強豪校なんです。

――大学卒業後はどんなお仕事を?

ボート日本代表チームの話があり、「これはもしかして、オリンピックにつながるかも?」と思い、手を挙げました。その後、ロンドン、リオデジャネイロ、東京と3度、日本選手団の公式なトレーナーとして選ばれました。一人のトレーナーが3大会も帯同するというのはなかなか珍しいかと思います。

部谷先生はなぜ、オリンピックに3度も帯同できたのでしょう? 次回は最終回。

先生の経験に基づく「トレーナー哲学」を詳しくおうかがいします。

部谷先生インタビューその3

<広報Mの取材MEMO>

部谷先生が最近、気になっていることをうかがいました。

「禅の本を読んでいます。目の前の、“今ここ”に集中するマインドフルネスに興味があります。呼吸はまさにマインドフルネスを体現できるもの。ゆっくり腹式呼吸をしている間は、ネガティブなことや過去や未来にとらわれない時間を過ごせます。セルフコントロールを極めるのに、禅のアプローチは面白いな、と思っています」。

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