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足立 清 Kiyoshi Adachi
大阪ブルテオン アスレティックトレーナー
学び続ける、その先に。
バレーボール界でトレーナーとして歩み続けて、十数年。
ダブルライセンスを目指す学生がまだ少なかった時代に、
鍼灸師とアスレティックトレーナー、さらに柔道整復師の資格を取得した。
SV.LEAGUE(SVリーグ)の現場で活躍する現在も「常に学び続けないと」と語る、一人の卒業生の未来と、その原動力に迫った。
2026年10月19日
2007年、履正社学園コミュニティ・スポーツ専門学校(当時)の医療系学科で初めて、日本スポーツ協会公認アスレティックトレーナー資格(以下、JSPO-AT)合格者が2名、誕生した。2002年に鍼灸学科一期生として入学した、足立 清がその一人だ。JSPO-ATの一発合格率は5%と言われていた中、3度目の挑戦で合格をつかんだ。
当時、日本ではアスレティックトレーナーの認知度は高くなく、「そんなに苦労して、時間もお金もかけて取る意味はあるのか」と心ない言葉をかけられることもあった。現在のJSPO-ATとは試験の形式が異なり、取り扱われる内容の幅が広いことにも苦戦したが、何よりそういった周りの声に悩まされたという。資格の取得を途中で投げ出す同級生もいる中、足立は決して諦めなかった。周りに流されず、意思を貫けた理由を問うと、足立は少し照れくさそうに答えた。
「変わってたんでしょうね、きっと(笑)。でもまあ、トレーナーを目指して、鍼灸師とJSPO-ATの資格を取るために入学したので。時間を取られようが、合格率が低かろうが、一度決めたからには達成するまで絶対に諦めないという気持ちが強かったです」
いい加減なトレーナーにはなりたくない。
足立がトレーナーを志したのは、高校3年生。自身が野球をしていたこともあり、元々スポーツに関わる仕事に就きたいと考えていた。そんな時、高校の体育の授業で膝の前十字靭帯をケガしてしまう。整骨院に通うも、なかなか良くならず辛い思いをしていた足立に、高校の教員がとある治療院を紹介する。それが、鍼灸師の資格を持つトレーナーとの出会いだった。
「若くして開業された方で、『自分にとっても経験になるから』と、学生からはそれ程お金も取らずに治療されていたんです。それに、治療院の最寄り駅まで何度も車で迎えに来てくれて、熱いなあ、すごいなぁと。『こういう人になれるといいな』と目標になった存在ですね」
自分もこんな風に、医療の面からスポーツを支えたい。治療で選手の力になりたい。漠然としていた足立の夢が、トレーナーという像を結んだ。それまではトレーナーの存在は聞いたことがあっても、テーピングを巻いたりする人程度の認識。トレーナーの種類や必要な知識などを調べる中で、アスレティックトレーナーの資格を知った。将来、スポーツ現場で活躍するには、トレーナーとして必須の知識、技術を持っていることを示すための資格が不可欠。そう考えた足立は、アスレティックトレーナー、鍼灸師の資格取得を目指し、履正社学園コミュニティ・スポーツ専門学校(当時)に入学した。
入学後、鍼灸師やアスレティックトレーナーの授業を受けながら、足立はさらに他の資格にも興味を持ち始める。
現在、本校でアスレティックトレーナーを目指す学生は、学内外のさまざまなスポーツチームで実習を経験する。しかし、当時は実習がなく、実際のスポーツ現場でどのような能力が必要とされるのか、知る機会が少なかった。「選手に対して正しい処置をするためには、自分から動いて知識を増やしていかないといけない」。そこで足立は柔道整復学科への内部進学を決意する。柔道整復師が得意とするのは、スポーツ現場で頻発する脱臼や捻挫、打撲などの外傷への応急処置。この技術を手にすれば、もっと選手の力になれるという思いが足立の背中を押した。
学びへの意欲は、学校の授業だけにとどまらない。気になる分野や役に立ちそうだと感じたことがあれば、学外で行われる勉強会やセミナー、講習会へ積極的に足を運び、学びを深めていった。さらに、さまざまなバックグラウンドを持つ講師や参加者との出会いは、足立の目指すトレーナー像を、より明確にするものでもあった。
「興味があって行ったセミナーでも、『この人、ちょっといい加減やな』と感じることがありました。勉強会で参加者と話をしていると、あまり知識のないまま現場でトレーナーをしている人もいるとわかってきて。自分はそうなりたくない。きちんとした深い知識を持って選手に還元したい、という思いが強くなりました」
学外の勉強会に参加していたのは、すでにトレーナーとして活動している社会人がほとんど。20代前半で、まだ学生の足立は珍しい存在だった。
その姿は、ともに学んだ同級生、桃井俊明(現・履正社国際医療スポーツ専門学校教員)の記憶にも強く残っている。桃井は大学、社会人を経て、柔道整復学科に入学。医療資格とアスレティックトレーナー資格取得を目指し、学んでいた。鍼灸学科の足立とも、授業で一緒になることが多く、勉強会や講習会に参加する数少ない仲間でもあった。
「足立くんは、アグレッシブな学生でしたね。当時、兵庫県立医科大学の教授が解剖学を教えられていて、大学で開催される講習会を履正社の学生にも紹介してくれたんです。5日間、朝から晩まで学べるものの、参加費が10万円くらい。僕は社会人を経ていたので、ある程度蓄えもあり、まだ余裕がありましたが、足立くんは学生でお金もないじゃないですか。それでも、どうしても行きたいからと『分割にできないですか』と先生に相談までして参加していたんですよ。もう20年程前になりますが、この時のことはよく覚えています」
その後、桃井との縁は関係性を変えて続くことになる。桃井が卒業後、柔道整復学科の教員として入職し、鍼灸学科から内部進学した足立の担任になったのだ。教員の立場からは、彼の存在はどう見えていたのだろうか。
「目立つタイプではないけど、いつも周りに人がいて、人との関係や縁を大事にしているなと感じていました。普段はおとなしいのに、興味のあることはどんどん聞いてくる。セミナーや勉強会で、できることを増やしているのも知っていたので、『僕がいつか接骨院を開業することがあれば、その時は雇うからよろしく』って頼んでいました」

立ち止まっていたら、何も始まらない。
足立がトレーナーとして初めてスポーツ現場に立ったのは、28歳の時。履正社の柔道整復学科を卒業後、約3年が経った頃だ。整形外科で経験を積む中で、野球の独立リーグに属する「高知ファイティングドッグス」がトレーナーを公募していることを知った。もし採用されると、現場経験がない中、いきなりトレーナーのトップの立場になるとも聞いた。大きな挑戦だった。迷いもあったが、ここで立ち止まっていたら何も始まらない。一歩踏み出した結果、無事採用され、30人近い選手を任されることになった。
しかし、トレーナーは足立1人。自身が得意とする治療はもちろん、コンディショニングやトレーニング、リハビリ、すべてを担当しなければならない。さらに、監督やコーチは長年プロ野球の現場で活躍してきた元アスリート。トレーナーに求める水準も高かった。
当時の足立は、アスレティックトレーナーとして基本的な知識は持つものの、現場の経験値はまだ少ない状態。選手一人ひとりに対して、ベストな対応をするのは容易ではなかった。そう振り返る表情には、「深い知識を活かして、選手に貢献したい」と志す足立だからこその悔しさがにじんでいた。プロのスポーツ現場で求められるレベルを知り、選手のすべてを任される経験をしたことは、足立のその後のトレーナー人生を築く土台となる。
トレーナー契約が終了し、高知から帰阪した足立に、以前から交流のあった大阪のダイナミックスポーツ医学研究所から声がかかる。同所はスポーツ選手も多く訪れる施設で、当時、業務提携していたパナソニックパンサーズ(現・大阪ブルテオン)に、トレーナーを派遣していた。すると、足立が入職してすぐ、メディカル担当のトレーナーが辞めることになり、その後任として白羽の矢が立った。それが、10年以上続く男子バレーボールとの出会いになる。
「バレーボールは、競技経験もトレーナー経験もありませんでした。でも、このチャンスを逃せば、次はいつトップレベルでトレーナーができるかわからない。やってみようと飛び込みました。競技は違っても、それまで学んできたことで対応できるとは思っていたので」
高知での経験や、勉強会やセミナーに頻繁に参加し、学び続けた積み重ねが、足立の自信となっていた。また、その姿勢は新たなチャンスを呼び込むことになる。
パナソニックパンサーズで6シーズンにわたりトレーナーを務めた後、足立は同じく男子バレーチームの東レアローズ(現・東レアローズ静岡)へ移ることになった。きっかけは、参加していた学会だった。そこで知り合ったトレーナーから紹介されたのだ。
日々の練習だけでなく、遠征にも帯同するトレーナーの仕事。その多忙な業務の中でも、学会にはよく参加していたと言う。
「やっぱり、学び続けないと置いていかれますし。常にアンテナを張っています」
同じ男子バレーボールチームでも、東レアローズとパナソニックパンサーズ、二つのチームの環境は異なっていたと足立は言う。
「パナソニックパンサーズは、選手もチームも意識が年々高くなっていて、これ以上自分が大きく変えられることはないかなと感じていました。やりきったような感覚があったんです。だから、他の場所で挑戦してみようと思えた。実際、東レアローズで働き始めて『いろいろ変えられることがあるな、もっと良くできるな』と感じましたね」
その一つが、遠征先での食事内容。基本的には、チームからホテルにリクエストしたメニューを選手に提供するが、朝食は選手が自由に選べるバイキング形式であることも多い。
「『試合前やのに、そのおかずを選ぶんか』って思うこともあって。ミーティングで意見したりして、改善していきました。アローズにも6シーズンいましたが、その間にチーム全体の意識がとても高くなりましたね」
選手と関わる中では、メンタル面の相談を受けることもあった。時には、足立の専門とする範囲を越える内容もあり、スポーツ心理学の専門家を紹介するなど、自分の持つ知識、人脈を全て活かし、選手をサポートしてきた。身体だけではなく、精神的なことまで相談したい。選手がそう思える関係をトレーナーが築くのは容易ではない。何か心がけていることがあるのかと尋ねれば、足立は間を置かず口を開いた。
「チームには、監督、コーチ、スタッフ、選手とさまざまな立場の人がいますよね。その中で、この人が言っているから、と人や立場に左右されないことが大事だと思っています。意見そのものをフラットに見て、聞く。誰が言ったとしても、同じような対応をする。相手によって言うことや態度を変えていると、その姿を周りはよく見ているし、次第に信頼されなくなると思うんです。僕もそういう人が嫌だったので、自分は絶対しないようにしようという思いが芯にあります」


どんな時も、冷静に。
足立は2024年から再び、古巣である大阪ブルテオンで選手を支えている。取材を受けている時、練習中のコートでコーチと話す時、選手からケガの報告を聞く時。どんな時も、足立の態度は一定で変わらない。ともに働くスタッフからも「感情をあらわにしているところを見たことがない」と言われるほど、常に落ち着いている。プレー中にケガをしたとしても、選手が慌てずにいられるのは、冷静に対応し、説明する足立の姿があるからだ。
「最初からそうだった訳じゃないですよ、もちろん。昔は慌てたり、試合に集中しすぎて、冷静でいられず、大事なことを見逃したこともありました。でも、これじゃあかんなと、視野を広く持つことを心がけるようになってから、変わってきたと思います」
苦い記憶として残っているのは、高知ファイティングドッグス時代。ある試合で、外野手がフェンスに衝突し、脚を痛めてしまった。目の前の作業に気を取られ、足立はその衝突の瞬間を見ていなかった。
「どんなぶつかり方、捻り方をしたのか。自分の目で見ていれば、ある程度はケガの予測をすることができます。でも、何も見ていない状態で評価すると、対応に若干の遅れが出てしまう。やっぱり、その瞬間を自分の目で見るというのは大事です。何か業務があっても、試合や選手の様子は見ておかないといけないと痛感しました。例えば、ドリンクを作りながらでも、ちらちら試合に目を向けることはできます。そうすれば何か起きた時、すぐに気づける確率は高い。でも、手元だけに集中してしまうと、確率は0%です。あれ以来、選手たちを視界から外さないようになりました」
視野を広く、冷静に。それは優勝が迫った、熱気のこもった試合会場でも変わらない。SVリーグ、2025-2026シーズンのチャンピオンシップファイナルゲーム。大阪ブルテオンはサントリーサンバーズ大阪と対戦し、初戦を落としてしまった。翌日の2試合目、第1セットは先取されたが、第2セットを取り返す。
「『あ、優勝するな』と思いました。第2セットの後、選手一人ひとりの表情が変わって、それまでとは違うスイッチが入ったのを感じたんです」
結果、その日は3-2で勝利。3試合目は3-0で制し、見事優勝を果たした。


学び続けないと、生き残れない。
10年前に、2,623人だったJSPO-ATの資格保有者は、現在は約2.3倍の6,111人(2025年10月現在)。スポーツ現場での認知度や立ち位置も変化してきた。実際、プロバスケットボールのBリーグ(Bプレミア)では、各チーム、JSPO-AT有資格者の配置が必須となる。この10年、トレーナーとしてバレーボールの一線に立ち続けている足立は、その変化をどのように感じているのだろう。
「各チーム、アスレティックトレーナーの人数は増えてきていますし、認知度や必要性は高まってきていると感じます。同時に、監督やコーチの指導者資格も整ってきて、トレーナー分野の知識を持つ人が多くなっています。選手時代に経験したケガに関して、とても詳しい方もいます。その分、トレーナーに求められる知識も、より高度になっていると思います」
トレーニングやコンディショニングへの理解が深まる中、バレーボール界では、2018年にV.LEAGUE、2024年にSV.LEAGUEが誕生。プロとなる選手も増え、選手自身の身体に対する意識も年々高まっている。
「ベストパフォーマンスを発揮するために、自分の身体をできるだけ良い状態にしておきたいという気持ちが強くなっていますね。たとえば、膝やアキレス腱など痛みのある箇所があれば、こちらが治療するだけではなく、選手から『何か自分でできることってありますか』と聞いてきます。さらに、SNSやインターネットが発達して、選手がいろいろな情報を手に入れられるようになりました。でも、それが正しい情報かまでは、選手が判断するのは難しい。『このトレーニングがいいって見たんですけど、どうですかね?』と相談されることも増えました。サプリメントも無限に種類があるので、聞かれて分からなければ調べて、勉強しての繰り返しですね」
一方、メディカル部門のスタッフ構成も変化している。
「バレーボールの現場に関して言えば、理学療法士や鍼灸師、栄養士など、一緒に働く人の幅が広がってきています。同じチームで働く以上、それぞれの資格がどんなもので、その人は何ができるのかを知らないと、何をお願いできるかもわかりません。たとえば、自分が抱えている選手の調子がなかなか良くならない時、他のスタッフに見てもらうことで、すぐ改善するかもしれない。でも、それぞれの専門性を知らなければ、その可能性にも気づけないんですよね。だから、一緒に働く人が持つ資格や専門分野について知るのは、とても大事だと思っています。そうやっていろんなことに興味を持って、学び続けないと生き残れない世界ですから」



頭の片隅には、常に選手がいる。
あらゆることにアンテナを張り、トレーナーの仕事に活かしてきた足立。プライベートでは、何に興味を持っているのだろう。気になって聞いてみたところ、苦笑いとともに返ってきたのは「あまりないんですよね」という意外な答え。
「オン、オフみたいな切り替えが完全にはできなくて。考えれば考えるほど、良いアイデアが浮かぶと思っているので、オフの日も、頭の片隅には選手がいます。あ、でも、インソールに興味があって……。自分で作れる資格を取りました。ケガの予防だったり、競技力の向上にも繋がるので、まずは大阪ブルテオンのジュニアチームに手軽な価格で提供できるよう計画を進めています。将来的には、トップの選手にも還元していきたいなと思っています」
オフの話を聞いたはずが、いつの間にか話は選手やチームの話に……。足立の中には、オンもオフも関係なく、ただ、誰かのためになりたいという、ぶれない思いがあるのだろう。それは「いい加減なトレーナーにはなりたくない」と勉強会に通っていた学生時代から、SVリーグのトレーナーとなった今も変わらず、この瞬間も足立を駆り立て続けている。

足立 清 あだち・きよし
1983年、大阪府生まれ。府立清水谷高校卒業後、2002年、履正社学園コミュニティ・スポーツ専門学校(現・履正社国際医療スポーツ専門学校)鍼灸学科へ入学。ダブル・ラーニング制度を利用し、鍼灸師、アスレティックトレーナー(AT)、二つの資格取得を目指し学ぶ。2005年、柔道整復学科へ内部進学。在学中の2007年、学校初のAT合格者となる。卒業後は整形外科で経験を積み、2011年にプロ野球独立リーグに所属する「高知ファイティングドッグス」のATに就任する。12年から男子バレーボールチーム「パナソニックパンサーズ(現・大阪ブルテオン)」のATを6シーズン務め、18年~24年は東レアローズ(現・東レアローズ静岡)、24年から再び大阪ブルテオンでATとして、主にメディカル部門を担当する。25-26シーズンには、同チームのSV.LEAGUE(SVリーグ)優勝を経験
写真/倉科直弘 文/学校法人履正社 広報企画局
※所属・肩書きは取材時点のものです







