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RISEI PEOPLE

履正社の人。

髙井 志保

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髙井 志保 Shiho Takai

ソフトテニスコース教員

The ball is in your court.

「日本一になる」と書いた紙を、
17歳の夏、自室の天井に貼った。
やがて彼女は、多くの後進を育て、
日本代表を支える指導者になる。
3人の恩師から受け継いだ指導哲学とは。
そして、次の世代へ手渡したいものとは。

2026年7月29日

 ソフトテニスは日本発祥のスポーツであるのをご存じだろうか。競技が考案されてから約140年。日本ソフトテニス連盟で初めて、女性の強化委員長が誕生した。2022年からその職を務める、髙井志保である。

 日本代表の強化を担う一方、髙井には、日々若い選手たちと向き合うもう一つの現場がある。

 8時45分。履正社スポーツ専門学校 北大阪校のテニスコートで、今日も練習が始まった。ここには全国的にも珍しい、ソフトテニスを専門的に学ぶ「ソフトテニスコース」が設置され、約50名の学生が日々、競技力を磨いている。

 3人いる専門教員のうち、髙井は、ソフトテニスコース創設時から指導に携わっている。コースのGMであり、夫でもある髙井翔宇(しょう)、昨年入職した村田 (たくみ)を含め、教員全員が全国トップレベルの大会で優勝経験を持つ。先生方、すごい経歴ですね、と率直に伝えてみた。すると彼女は小さく笑いながら、「そうですね、でも……」と続ける。

「髙井(翔宇)先生と村田先生は、中高時代からずっと、強豪校で活躍してきました。それに比べて私は、中高では、たいした戦績を残せていないんですよ」

履正社の人。髙井 志保

テニスを教えてもらえない日々。

 ここからは旧姓の「福島」で、話を進めよう。福島志保は神戸市灘区にある松蔭中学校・高等学校の出身。お嬢様学校として名高い伝統校だ。「伯母の母校だったんです。制服も可愛いし、中高一貫の6年制だから好きなことに没頭できるよ、と親からも勧められて」、中学受験に挑戦する。晴れて合格し、入部したのがソフトテニス部。両親が趣味で楽しんでいるのを見て、自分も中学生になったらやってみたい、と思っていた。

 松蔭中高は、かつては強豪校と呼ばれた時代もあったが、スポーツ推薦もなく、福島が在籍していた頃は、競技レベルはそれほど高くなかった。しかし、監督の吉村知広(ともひろ)は、名選手として知られた指導者だった。当時の吉村は多忙を極めていた。担任だけでなく、学年主任も兼務。兵庫県ソフトテニス連盟の高体連で、競技委員長も務めていた。そのため、コートに顔を出してもすぐに会議に呼ばれてしまう。福島たち部員はテニスを教えてほしいのに、時間をもらえない。専門誌を参考に、強豪校の練習メニューを真似るなど、自分たちで考えて取り組むしかなかった。

 一方、忙しい吉村に代わり、練習を見に来ていたのが、木村 (おさむ)である。吉村の前任者で、松蔭中高が強豪だった時代を支えた名監督でもあった。

「でも、木村先生は『今は吉村先生が監督だから』と、指導には一切、口を出しませんでした。コートには来てくれるけれど、ただ見守るだけ。朝練に出ると、だいたいベンチに座っておられるんですが、クレーコートはいつも、きれいに水が撒かれていました。そんな風に、私たちを待ってくださる方でした」

 高校1年の夏。本人曰く「奇跡的に」兵庫県ベスト8になり、憧れのインターハイに出場する。2回戦でシード校に当たり、実力差を痛感した。強かったなぁ。またインターハイに出られるよう、もっともっと頑張ろう。そう思っていた矢先、阪神淡路大震災が発生した。学校は休校になり、テニスどころではなくなった。福島とペアを組んでいた、部内で一番上手な同級生も、震災の影響で東京に引っ越してしまった。

「監督に、謝りに行け」

 最終学年への進級を控えた春休み。新キャプテンとなった福島は、「ヨネックス杯」に参加した。下級生とペアを組み、石川県の強豪校相手に善戦。しかし、監督の吉村はコートにいない。相変わらずの多忙さで、会場入りが遅れていた。

 ファイナルゲームになり、吉村が来たのが見えた。結局、試合には負け、報告に向かう。どう考えても相手のほうが強かった。でも、自分なりに試行錯誤はした。どこかで、認めてもらいたい気持ちがあった。だが吉村は、優しい言い方ではあったものの、「お前が(ペアを)引っ張っていかなあかんやろ」と、福島のサンバイザーを軽く、パシッと叩いた。

 その瞬間、抑えていた感情が噴き出した。練習を見に来てほしいのに、全然顔を出してくれない。他校の生徒が監督からアドバイスをもらっている姿がうらやましい。今日の試合だって、自分なりに頑張った。それなのに……。気づけば、大声で怒鳴っていた。

「どうせ何も見てなかったんじゃないですか? 私たちも、やるべきことはやってるんです!」

 コートサイドで口論になった。吉村に「帰れ!」と言われ、コートを飛び出そうとした福島を止めたのは、副顧問の石橋英二だった。競技経験者ではないが、試合の引率をしたり、女子同士の仲違いをうまくとりなしてくれる存在だった。「お前は吉村先生の気持ちがわかっていない。先生は忙しい中、誰よりもお前たちのことを考えてくださっているのに」とたしなめられ、その日は宿泊先のホテルに戻った。

 夜になって、石橋に、「監督に謝りに行け」と促された。絶対嫌だと言い張ったが、最後は吉村の部屋の前まで強引に連れていかれた。すみませんでした、と小声で謝った。

「その後、どうなったのかはもう覚えていません(笑)。ただ、この一件で吉村先生は、私がずっと不満を抱え、指導を求めていたことを知ってくれたように思います」

 そして迎えた最後のインターハイ。福島は予選で負け、コートで大泣きした。吉村の所に向かうと、「そんなに泣くなよ。わしも泣きたいわ」と言われ、余計に涙があふれた。

井の中の蛙、大海に出る。

 インターハイ予選で負けた夜。福島は「日本一になる」と大きく書いた紙を部屋の天井に貼った。勝ちたい。もっと上手くなり、日本一の景色を見てみたい。そして、吉村と木村に「上の大学でソフトテニスを続けたい」と願い出る。「上の大学」とはすなわち、神戸松蔭女子学院大学(現・神戸松蔭大学)を指す。伝統と実績を兼ね備え、現在もソフトテニスの強豪校として名を連ねる大学だ。

「内部進学者は学年の中で私だけ。当時から、大学には全国有数のトップ選手が集まっていました。そのことはもちろん、知ってはいたんですけど……。私はまさに、『井の中の蛙』でした」

 強い学校に行けば、自分も強くなれる。そんなイメージを描いて大学に進学した。だが待っていたのは、練習についていくのが精一杯の毎日。入部当初の一カ月は、「上げボール(球出し)」すら上手くできず、チームメイトが求めるボールを打てなかった。

 そんな「チームで一番下手だった」1年次の福島に、予言めいた言葉をかけた人物がいる。監督の(おもて) 孟宏(たけひろ)。ソフトテニス界では広く知られた、名伯楽である。

 表はデータ分析に長け、練習を理論的に組み立てる指導者だった。例えば、乱打練習などでは、ラリーを必要以上に続けさせなかった。その理由を、こう説いた。

「あらゆる試合のデータを取ると、ラリーは5往復ほどしか続かない。だから、それ以上はやる必要がない。その代わり、その5往復は絶対にミスをしないように」

 そのほかにも、風上に立ったときはどこへ打てばポイントを取りやすいのかなど、試合のさまざまな局面をデータに基づいて指導した。

 その日は雨で、体育館での練習になった。上級生がベースラインいっぱいまで使って距離の長いラリーを続ける一方、1年生はネット付近でショートラリーに取り組んでいた。福島は、表が座る席の近くでプレーしていた。監督にボールが当たらないようにと、いつも以上に必死だった。アドバイスをもらおうと、勇気を出して表のところへ駆け寄った。すると表は、ゆっくりとこう言った。

「福島さん、あなた、4年生になったらインカレで優勝するよ」

履正社の人。髙井 志保

風が変わり、コートは無音になった。

 表の言葉は現実となる。1999年、第54回三笠宮賜杯全日本学生選手権。福島は大学3年生になり、決勝戦のコートに立っていた。相手は同じ大学の上級生ペア。いわゆる同士討ちである。マッチポイントになり、福島はファーストサーブを打つ準備をしていた。そのときのことを、彼女は克明に記憶している。

「それまで私たちが風上側にいたのですが、急に横風になりました。そうなると、クロスでサーブを打ったら、風で球が押し戻される位置関係になる。マッチポイントのファーストサーブなので、相手レシーバーは後ろ寄りにポジションを取っていました。でも、風が変わった。こちらが短くクロスに打てば、向こうはボールを取りづらくなると予測しました」

 そこから、福島の目に映るすべての動きがスローモーションになり、コートから音が消えた。トスアップし、狙ったコーナーに短いクロスを打つ。相手が体勢を崩して前のめりになり、返球がゆっくりと浮いてくる。福島のペアが前に入り、鋭いスマッシュを決める。相手コートにボールが2バウンドしたところで、突然、割れるような歓声が耳に入って来た。福島はこの時のことを、「いわゆる『ゾーン』に入っていたんだと思います」と述懐する。

 見事、初優勝を決め、監督に言葉をもらいに行った。

「そうしたら……。表先生、『一年早かったね』って、言ったんです。本当に驚きました。あの時の言葉を、覚えておられたんです」

 名伯楽は、福島の成長を誰よりも早く予見していた。

「そのうち、そんな時代は終わる」

 福島は4年次も、華々しい戦績を残す。6月の第20回全日本大学リーグ王座決定戦で団体優勝。続く8月のインカレではダブルスで準優勝、シングルスでは優勝を果たす。卒業後はそのまま、母校でコーチをすることになっていた。

「実は大学2年のとき、『卒業したら、ここでコーチにならないか』と表先生に声をかけられていました。私以上に優秀な選手はたくさんいたし、特段可愛がられた記憶もない。それなのになぜ私? と、不思議でした。結局理由は聞けずじまいで、もう確かめる術もありません。でもひとつだけ、思い当たることがあって」

 大学1年の終わりごろ。とある日のミーティングで、表は学生たちに、こんなことを尋ねた。

「この中で、指導者から手をあげられた人はいる?」

 福島以外の全員が、手を挙げた。今では絶対に許されることではないが、そういう時代だった。表はこう続けた。

「そのうち、そんな時代は終わる。あそこに打て、こう打て、と指示されるばかりのプレーの何が楽しい。たとえ勝ったとしても、言われるがまま反応しただけじゃないか。自分で考えて、失敗し、成功する。それがスポーツだ。人が人をコントロールするなんて、一番やってはいけないことだ。体罰なんて、もってのほかだ」

 それまで福島には、中高時代の指導者から十分に教えてもらえなかったことへのコンプレックスがあった。指導者が感情をあらわにするほどの熱い指導など、受けたことがない。自分は甘く、ゆるい環境で育ったとすら思っていた。

 だが、むしろ吉村と木村の指導こそが、自分で考えるための素地をつくっていた。どうすればトップ選手に近づけるのか。足りないのは練習環境か、能力か、それとも努力か。中高6年間にわたる試行錯誤が、自ら成長する力を育んでいた。

履正社の人。髙井 志保

もう一度、初心者になる。

 母校のコーチになることが決まっていた福島だったが、卒業後は実業団チームでもプレーすることになった。大学でペアを組んでいた選手がその企業に内定しており、ペアを解消するのは惜しいので、国体(現・国スポ)の強化メンバーとして2人で続けないかという話だった。神戸でコーチをしながら徳島に通う、二足のわらじの生活が始まった。

 しかし2年目の春、突如イップスに陥る。

「スライスショットを集中して練習していた時でした。テイクバックの際、突然、インパクト面の向きがわからなくなったんです。そのうちテイクバックの形までわからなくなりました。気づかれるのが怖くて、トスのボールが手から離れなくなりました」

 大学時代のチームメイトなど、福島を良く知るメンバーは、何か変だよ、大丈夫? と心配してくれた。だが、実業団チームのスタッフは、普段と様子が違う彼女を見て悪気なく、「神戸でちゃんと練習してる?」と声をかけた。

 ああ、私はちゃんと練習していないと思われているのか、と受け取った。

 大学で日本一を経験した選手として、周囲の期待もあった。だからこそ、うまく動けない自分を見られるのが怖かった。不安と焦りから、異常なまでに練習量を増やした。やれることは全部やった。それでも、状態は悪くなっていった。

 辛い時期は半年続いた。チームは再契約を考えてくれていたが、福島は逃げるように実業団を離れた。

 それでも、母校の大学でのコーチは続けていた。ラケットは握らず、口頭で指導する日々。ある時、調子を崩した選手の相談に乗っていた。逃げたらあかんよ、最後まであきらめずにやろう。そんな風に声をかけながら、ふと思った。

 でも、自分は逃げたよなぁ。

 指導者を続けるなら、自分の競技人生にもきちんと区切りをつけなければ、言葉が嘘になる。ちゃんとテニスを終わらせたい。そう考えた福島は、もう一度試合に出ることにした。地元のクラブチームに入り、選手登録をして、全日本シングルスを引退試合の舞台にすることに決めた。

 1年ぶりに握ったラケット。練習方法も変えた。元のフォームに戻そうとするのではなく、いったんすべて忘れることにした。握り方、弾き方、テイクバックの形。もう一度、初心者になったつもりで、ソフトテニスをやり直した。

 地道な練習を重ね、予選を突破。目標通り全日本シングルスに出場し、結果は3位だった。

「勝てたとか、結果がどうとかではなく、もう一度、競技と向き合った。それが私にとっての引退試合でした」

履正社の人。髙井 志保

何のために、ソフトテニスをするのか。

 2005年、履正社スポーツ専門学校のウエルネススポーツ科(現・競技スポーツ学科)に、テニスコースが新設されることになった。大学を退官した表がソフトテニス専攻の立ち上げに参加し、福島にも実技指導の声がかかった。当時は母校のコーチを辞めており、自宅から通いやすかったため、引き受けることにした。

 翌年4月、1期生が入学した。学生は男子が3人だけ。しかも、コースの立ち上げが急だったため、初年度は学連登録が間に合わず、1年間、公式戦に出られないことが判明した。試合がないのに、毎日練習をする。特殊な環境でのスタートになった。

「私もまだ若かったし、男子を指導するのも初めて。お互い、真っ向から気持ちをぶつけ合っていました。プレーがうまくいかず、苛立って余計にミスを重ねる学生に『それが弱さや!』とストレートに言ったら、『そんなん、わかってます! 俺だって、したくてミスしてるんとちゃうんです!』って、泣いて返される。あの子たち、よく悔し泣きしてました(笑)」

 青春スポーツドラマさながらの日々。だが、この1年が、指導者・福島の礎となった。

 コース立ち上げの際、「ソフトテニスコースなんか作って、どうするんですか」と言われたことがある。その時は、うまく答えられなかった。しかし、1期生と過ごす中で、答えが見えてきた。

 試合があってもなくても、人は一つのことに真剣に向き合うことで成長する。努力の先に、トロフィーや賞状が手に入らなくても、目に見えない何かは確かに残る。競技力を高める過程には、我慢も、協調性も、思考力も、想像力も必要になる。それらは、コートの外でも生きていく力になる。雨の降り方、風の向き、対戦相手の表情。小さな変化一つひとつをどう感じ、受け止め、共有するのか。私たちはソフトテニスを通して、生きる感受性を高めている。競技と人生は、つながっている。

 ソフトテニスコースから巣立った学生の中には、実業団選手や指導者になった者もいる。また、一般企業に勤めながら週末に大会へ出場するなど、卒業後も長くソフトテニスに関わり続ける者は多い。

履正社の人。髙井 志保
履正社の人。髙井 志保

自分の「こうありたい」から逃げない。

 1期生の入学から20年。福島の姓は髙井となったが、学生からは今も「福島先生」、または「志保先生」と呼ばれている。現在は、日本ソフトテニス連盟初の女性強化委員長として、ナショナルチームを支える立場でもある。就任後、自分なりの色を出した。アンダーからトップチームまで、全カテゴリーに女性コーチを登用。トレーナーも男女半々とし、若手からベテランまで、スタッフの年齢構成もバランスよく配置した。代表合宿も初めて、男女合同で行った。

 長く指導を続けてきた髙井に、後進に伝えたいことを改めて尋ねた。

「自分の中のアウト、セーフは、大切にしてほしい。ナショナルチームの子たちにも言うんです。テニスコートには、自分が人生で大事にしたいことを持ち込んでほしいと。友達を大切にする、人の話を聞く、ごまかさない。そういった、等身大の自分が大切にしていることを守りながら得た失敗や成功は、後で語ることができます。本当は笑いたくないのに笑う、言うべきでないことを感情のまま言うなど、自分の『こうありたい』から外れて得た結果は、思い出したくないですから」

 20歳前後の学生は、自分なりの価値観や「こうありたい」という思いを、少しずつ形づくっていく時期にいる。けれど、嫌なことに直面すれば、そこから逃げたくなることもある。思ってもいない言葉を、つい口にしてしまうことも。

「もう無理、全然勝てない。辞めたい」。投げやりな言葉を口にする学生に、髙井は最近、こう返すのだという。

「それでいいの? 大丈夫?」と。

「本心から来る言葉じゃないんです。『いいの?』って聞くと、だいたいは『いえ、ダメだと思います』って言いますから。学生の中に、答えはあるんです」

 The ball is in your court.

 テニスが由来の慣用句で、「次はあなたの番」「あとはあなた次第」と訳される。恩師たちから受け継いできたものを、若い世代へとつないでいく。志保先生は今日も、コートに立つ学生一人ひとりに、問いを打ち込んでいる。

履正社の人。髙井 志保

髙井 志保 たかい・しほ

1978年、大阪府生まれ。神戸松蔭女子学院大学(現・神戸松蔭大学)在学中、全日本学生選手権大会、全日本シングルス選手権大会など、数々の全国大会で優勝、上位入賞を果たす。卒業後は指導者の道へ。2006年、本校テニスコース新設を機に、ソフトテニス専攻の実技指導を担当する。ナショナルチームの女子U-20(現・U-21)コーチ、女子U-17コーチ、同監督を経て、2022年、日本スポーツ協会理事に就任。また同年、日本ソフトテニス連盟理事および同連盟強化委員長を兼任する。アジア競技大会をはじめとする国際大会で、ナショナルチームの全種目優勝を目標に強化にあたる。2020年より母校・神戸松蔭大学ソフトテニス部コーチに復帰。2026年からは同大学の監督を務める。『ソフトテニスマガジン』誌で、コラム「福島談義」を長期連載中

写真/倉科直弘 文/学校法人履正社 広報企画局

※所属・肩書きは取材時点のものです

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