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RISEI PEOPLE

履正社の人。

川内 滉大

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川内 滉大 Kodai Kawachi

バスケットボールコース2年生

バスケがめっちゃ好きすぎて。

昨年10月、18歳にして3人制バスケットボール日本代表に選出。
高校時代、大阪府予選決勝での活躍が話題を呼んだこのシューターは、
なぜ専門学校への進学を選んだのか。本人のインタビューを交え、
「バスケットボールの世界に生きる」19歳の実像に迫る。

2017年5月24日

 2015年夏、日本バスケットボール界は歓喜に沸いていた。ハヤブサジャパン――今はアカツキファイブの愛称で通るバスケットボール女子日本代表がアジア選手権決勝でライバル中国を下し、アテネ五輪以来、実に12年ぶりとなる五輪出場を決めたからだ。

 男子リーグの統合問題が原因で国際試合の一時出場停止処分を受けるなか、逆境を乗り越えての快挙だった。「今日はぶっ倒れてもいい。大好きなバスケットを全力で頑張ろう」という吉田亜沙美主将の試合前の檄が報道で紹介され、バスケットファンのみならず、多くの日本人が心を動かされた試合だった。

 その歓喜から8日後のことだ。残暑の続く9月13日、大阪府枚方市のパナソニックアリーナでは、その年の高校ナンバーワンを決める最高峰の舞台、全国高等学校バスケットボール選抜優勝大会(通称:ウインターカップ)の大阪府予選男子決勝がおこなわれた。

 近年、大阪の高校バスケットボール界をけん引する近大附属高校と、創部4年目で進境著しい大阪桐蔭高校の決戦を見届けるべく、三千人のファンが会場を埋めていた。82-74で順当に王者・近大付高が勝利を収めたこの試合で、しかし、彼ら観衆の眼を終始くぎ付けにしたのは、3カ月後に全国の舞台でベスト8に進んだ近大付高の際立つ組織プレーでも、同校が擁する197㎝、190㎝の強力ツインタワーでもなかった。

「あの11番は誰だ?」

 会場にざわめきがこだまするほどのインパクトをたった一人でもたらした選手、それは青のユニフォームをまとった大阪桐蔭の、175㎝の「背番号11」だった。

 この試合、大阪桐蔭は近大付高を相手に第4Qで一時1点差に迫るなど、驚異的な粘りで終盤まで王者を苦しめた。その主役が、スリーポイントシュートを8本沈めただけでなく、フィジカルの強さを活かした突破を武器に一人で40点を叩き出した背番号11、川内滉大 かわち こうだい であることは誰の眼にもあきらかだった。

「3年生のこの試合で自分のバスケットは終わり、集大成のつもりで臨んだ試合でした。それは個人的には達成できたんですけど、どうしてもあのチームで全国に行きたかったので、悔しかったという思い出しかないですね」

 だが、「詳細は覚えていない」と本人がいうほどの“ゾーン”に入ったプレーは、その後、少なくはない反響を呼んだ。

「試合が終わって落ち着いたときに、『お前、一人だけノリノリで40点も取ってたで』って周りから聞いて。気がつくと、SNSでも話題が広まっていて、急に色んな人とのつながりが増えていって……」

「今日で最後」と心に決めてから約1年後の10月、川内滉大の名は、日本バスケットボール協会が発表した「3×3男子日本代表」のメンバーリストの中にあった。

まるでキャプテンみたいだった。

 2016年12月の朝、大阪の十三 じゅうそう にある履正社医療スポーツ専門学校の体育館で、バスケットボールコースの練習を見学した。同校は全国専門学校バスケットボール大会で4連覇を達成中で、何より、「3×3日本代表」である川内滉大のプレーぶりを観てみたかったからだ。

 同コースは男女ともに、午前中にバスケットボールを「授業」としておこなっている。バスケットの腕を磨いてプロや実業団を目指す学生や、学内で医療やトレーナーの資格を取り、あるいはコーチの勉強をして、将来はバスケットボールにたずさわりたいという学生たち――彼らの中に、川内はいた。

 練習が始まってしばらくすると、同行の写真家がつぶやいた。

「全然ちがう子に見えてきたぞ」

 練習前はボサボサの頭でどこか眠たそうに見えた川内の顔つきが、ウォームアップを経るうちにどんどん“本気”に変わってくる。ボールを使ったゲーム形式の練習になると、1年生の彼がまるでキャプテンのようだった。

「中でもっと声出そう!」「リングを見ろ!」「ディフェンスしゃべってやろう! しゃべって!」「ボールに飛びつけ!」

 居並ぶ上級生にもお構いなしに、コートの中や外から、絶えず指示やアドバイスを飛ばす。ボールが自分の前にこぼれて取り合いになれば、しがみついて離れない。「絶対に負けない」「勝ちたい」という強い気持ちが、ほんの数分練習を見ただけで伝わってくる選手だ。

履正社の人。川内滉大

「一番おいしいところでやらしてほしい」

 1998年1月、大阪府堺市に生まれた川内は、料理人の父、保育士の母、そして姉と妹に囲まれた家庭に育った。勝ちにこだわる性格は、天性のものだったらしい。

「小さい頃から、ゲームとか遊びをしても、勝つまでやりたかったです。何をやるにしても、勝つ方法をずっと考えてました。周りにちやほやされたり、目立ったりするのが好きやからかもしれないです」

 中学の修学旅行や高校の部活の祝勝会など、何か“芸”が要求される場面では、必ず先頭に立つタイプだった。

「『一番おいしいところでやらしてほしい』って言って、大トリでオモロいことをやってました。学級委員とか、体育祭の委員長とか、選手宣誓とかも、『やりたい』って言って。バスケットでも、接戦になって『この得点がほしい』という時は、自分の中では『絶対自分が(シュートを)打つ』って決めていて。そういうおいしいところを持っていけば、勝った時に『あいつがいたからやな』って言われる選手になれる。そういう思考でプレーしてます」

 バスケットボールを始めたのは小学校4年の時。このスポーツの虜になったのも、初めてのライバルに「勝った」ことがきっかけだったという。

「所属していたミニバスのチームに同学年の子が一人だけいて、彼がキャプテン、僕が副キャプテンでした。でも彼は小2からバスケを始めてるから、僕より上手で、ずっと上からモノを言ってきて(笑)。それがイヤで、小学校の休み時間もみんながサッカーしている間に一人でシュート練習したり、休日にクリニックに参加したり、家の前でもドリブルしたりして、それを続けていたら、6年生の時に二人で堺市の選抜に呼ばれたんですよ。すると、その選抜では自分がキャプテンになって、コートでのプレータイムも自分の方がもらえた。それが自信になったというか、ライバルを倒して、自分を認めてもらったというその時の喜び、嬉しい気持ちが、中学校でももっと頑張ろうっていう気持ちにさせてくれたんだと思います」

 自宅から自転車で30分ほど山を登ったところに一つだけ、バスケットのリングがある公園があった。真夏もリュックを背負い、自転車のかごにバスケットボールを入れて、汗だくになって通い詰めた。

「バスケットがめっちゃ好きすぎて、母親には『やりすぎや』って怒られてたんですけど、夜中までやってました。特に進学する高校が推薦で決まってからは、バスケばっかりできる期間やったんで、学校で朝練して、放課後は部活で練習して、家に帰ったら公園にGO(笑)。勝手に3部練してました。いつも、気がついたら27時くらいになってて。その公園は外灯が一つあるだけで、夜中はほとんどリングが見えないんですけど、自分の中でイメージを作って、『俺目つぶっても入るで』っていうのをやるんですよね。真っ暗な中でやってたら、ホンマに自分のフォームとイメージの調整だけで決まる。ネットのあの『シャゴッ』っていう、入った音だけ聞こえるんです」

 外灯の光が作る自分の影を見て、ドリブルの動きをたしかめた。落ちていたペットボトルのゴミをディフェンスに見立てて、かわす練習をした。暗闇の中、「あと何本連続で決めないと帰られへん」とルールを決め、シュートを打ち続けた。あと何本、あと一本……。気がつけば、府内の同学年に敵はなく、川内は大阪府中学選抜のキャプテンを任せられる選手に成長していた。

「ここはちょうどいいぞ」

 膝の痛みに悩まされ始めたのは、中学時代からだったという。

「ずっと悪くて、でも、高校卒業までだましだまし続けてたんです。高校では休みが月に1日あるかないかやったんで、なかなか病院にもいけなくて。引退試合が終わってから、初めて大病院に検査しに行きました。『よくここまでやったね。もうボロボロだよ』って言われて。すぐに手術することになりました。この膝があるから、自分の中で『バスケットは高校まで』と決めていたんです。将来は学校の先生か、医療のスポーツトレーナーになろうと。まずは鍼灸師の資格を取ることを目指そうと思っていました」

 推薦で誘ってくれる大学がないわけではなかったが、自分の膝は、さらに4年間の過酷な練習には耐えられそうになかった。将来を見据え、高校を卒業したら医療資格の勉強に専念する。ただ、だからと言って、バスケットボールが全くない生活も考えられなかった。

「僕、人に教えたりするのが好きなんで、バスケットボールには携わっていたかったんです。4年制の医療大学に行けば勉強が忙しすぎて、多分、バスケは完全に諦めないといけなくなる。それで色々学校を探していた時に、『ここはちょうどいいぞ』と。授業でバスケットをしながら、資格も色々取れる。『これこれ!』って自分のイメージしていたこととピッタリはまって。それで履正社に決めました」

 履正社医療スポーツ専門学校に入学後は、バスケットを2年間続けながら、2年次から3年間で鍼灸師の資格取得を目指す「メディカルアスリート専攻」を選択した。将来はバスケットを教えながら治療も施せる指導者やトレーナーになりたい、そんな夢を追いかける日々が始まったのだった。

 しかし、入学から3カ月が経ったある日、突然転機がやってきた。

 日本バスケットボール協会が主管する3×3のU18(18歳以下)日本代表に、専門学校の同級生とともに、川内が選出されたという報せが届いたのだ。

「高校の時に3×3の全国大会に出たことはあったんですけど、まさか専門学校の自分がとは思いました」

 急遽、学業の合間に参加したマレーシアでのアジア選手権では、シュートコンテストで個人優勝するなど活躍し、数カ月後には年齢制限のない3×3の日本代表にまで招集されてしまったのだった。

履正社の人。川内 滉大
©FIBA

「まだバスケ、頑張れんのかな?」

 10月、中国の広州で行われた「FIBA 3×3世界選手権」ではガードとしてプレーし、20チーム中、2勝2敗で11位に食い込んだ日本の健闘に貢献。突然飛び込んだ世界の舞台で、今も腕が錆びついていないことを世間に示した。それよりも、あれほど不安だった膝の調子が良くなってきていることに自分でも驚いた。

「履正社の授業で、アスレティックトレーナーやコンディショニングの先生、それと鍼灸の先生に教わったことが大きくて。会うたびに骨盤の動きを矯正するように言われたり、マンツーマンでケアをしてもらったりしているうちに、どんどん身体の使い方が良くなってきました。とにかく授業で質問したら、全部教えてくれるんで。深くて濃い情報を下さる先生方に感謝してます」

 日本代表で出会ったトレーナーには、こんなことを言われた。

「膝、できないことはないぞ」

 怪我が完全に治ることはなくても、治療を続けながら、努力次第ではプレーヤーを続けることもできるかもしれない――。一度は捨てた夢だった。しかしその言葉を聞いて以来、心の中に沸き起こってきた感情は、自分のうちに押し殺しておくにはあまりにも大きく、あまりにも激しいものだった。

「まだバスケ、頑張れんのかな?」

 折しも2016年4月、プロバスケットボールリーグ「Bリーグ」が開幕したばかりのタイミングだった。子どもの頃からずっと、「バスケットでは食べていけない」と、半ば常識のように言われていた。プロなど夢でしかなかった人生に、突如ひらけた未来。

「日本代表で海外のレベルを経験すると、やっぱりもっと上を目指して、まだまだやりたいと思いました。代表のチームメイトにBリーグに行った人がいるんですけど、日本人初のNBAプレーヤーだった田臥(勇太)選手と同じリンク栃木ブレックスに所属していて。田臥選手のバッシュの紐の結び方とかを、まるで自分の友達みたいな感じで話してるんです。まさか、小学校の時にめっちゃ憧れてた人が、今、こんな友達の友達みたいな距離にいるなんて……。そういう有り難い環境に自分がいるんだと思うと、頑張れるうちはバスケット一本で夢を追いかけて、とにかくやれるところまでやってみようと思いました」

必ず、突きつけられる課題。

 今、川内は医療資格の勉強を“一時休業”とし、目指しているのは「プロ一本」。日々状態が変わる膝とつきあいながら、バスケットをひたむきに追求する生活を送っている。課題は自分でも十分見えているつもりだ。

「世界選手権に出場した時、全選手の中で175㎝の僕が最低身長やったんですよ。日本のバスケは『身長がない分、走って勝とう』っていう戦術で、自分も足には自信があったので、いけるかなと思ってたんですけど、結局当たり合いのところで体力が削られるんです。自分よりはるかにでっかい、30㎏くらい体重差のある外国人選手が上からのしかかってくるのを何とか抑えたり、当たられたりしたらめちゃくちゃ痛い。こっちは走りたいけど当たることに必死で、しかもその中で考えてバスケをして、声も出してチームを動かさないといけない。これって必ず、国内のプロを目指す中でも突きつけられる課題やと思うんです。だから身体を作ることが大事なんやなっていうのは痛感してます」

 午前は実技授業、午後は座学やトレーニングの授業。そして学校から帰ってもバスケットをする毎日は、結局、中学時代から変わらない。

「クラブチームにも入ったり、夜バスっていう、夜に中学校の体育館とか借りてやっているところがあれば、自分で連絡して参加したりして。試合や遠征がない土日も、とにかく自分でバスケをする環境を探して、予定をできる限り練習で埋めています。休養にするって決めた日はめっちゃ寝てますけど(笑)、それ以外は全部バスケ。たまに、妹が通っているバスケットのクリニックに、小さい子を教えに行ったりすることもあります。教える側になったときに気づくこと、多いですよね?」

 中学時代から通い詰めたあの公園まで、今も自転車で山を登ることがある。

「迷ったり悩んだりした時は、自分の世界に入り込むために一人で行って、黙々とシュートしてます。ネットがボロボロだったので、もう最近、自分で張り替えました(笑)」

 19歳の川内滉大は、「大好きなバスケットを全力で」頑張っている。夜の公園でたった一つの外灯が照らし出すのは、プロでプレーしている未来の自分の姿だ。

履正社の人。川内滉大

川内 滉大 かわち・こうだい

1998年1月7日、大阪府堺市生まれ。小学校4年でバスケットボールを始め、泉ヶ丘東中学時代は大阪府選抜の主将を務める。大阪桐蔭高では2年時に同校が夏のインターハイ出場、3年時はウインターカップ府予選決勝で涙をのんだ。2016年、履正社医療スポーツ専門学校に進学後、8月に全国専門学校大会4連覇に貢献。同年7月、U18 3×3日本代表に選ばれ、U18アジア選手権ではシュートコンテストで優勝した。同10月には3×3日本代表に選出され、中国・広州でおこなわれた世界選手権に出場。175㎝、72㎏。バスケット以外の趣味は人間観察と物まね、幼いころから父親に連れられていったサーフィンとスケートボード。「自分のボードもあるんですけど、ケガしたくないんで最近はやらないです」。

写真/平野愛 文/釜谷一平

※所属・肩書きは取材時点のものです

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