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RISEI PEOPLE

履正社の人。

友尾 龍二

履正社の人。

Risei People

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友尾 龍二 Ryuji Tomoo

柔道整復学科3年生

自分の翼をもつために。

6年前、高校ラグビーの全国大会で日本一の栄冠に輝いた。
大学では、チームを39年ぶりの1部昇格に導く原動力となった。
「決定力」をそなえた、福岡育ちの快足トライゲッター。
いま、大阪の地で日夜、未来を見据えた勉学に励んでいる。

2016年9月27日

「2010年の東福岡高校」と聞くと、きっと熱心なラグビーファンは反応するはずだ。

 その年の正月、大会得点記録を塗りかえる快進撃で全国高校ラグビーフットボール大会(通称「花園」)を制した福岡県の東福岡高校ラグビー部は、高校日本代表を8人も抱えるスター軍団だった。キラ星のごとく人材が一堂に会したチームは、国内の公式戦で負けなしの29連勝。「史上最強」と呼ぶ声もあった。

 友尾龍二は、そのチームのレギュラーをつとめる最上級生だった。ポジションはウイング。伝統の緑のジャージーをまとい、快足を飛ばしてつぎつぎにトライをあげた。日本一を決めた最後の花園では、大会のトライ王に輝く活躍だった。

 当時、東福岡高校が優勝を決めた瞬間の映像がYou Tube に残されている。

 ノーサイドの笛が鳴り、黒いヘッドキャップを右手に握りしめた友尾が、チームメイトたちと歓喜の固い抱擁をかわす。天に向かってむせび泣いているようにも見える。

 それから6年がたった今年の7月、元ラグビープレーヤー・友尾龍二を履正社医療スポーツ専門学校に訪ねた。

「泣くなや」「いや、泣きますよ」

 現在、友尾が通う同校は、大阪の十三(じゅうそう)という街にキャンパスを構える。大都市・梅田から電車で3分。阪急電鉄で大阪と京都、神戸、宝塚の三都市をつなぐ鉄道の要衝でありながらも、いまだに昭和の風情がそこかしこに残る下町だ。

 その十三駅から徒歩5分の距離にある校舎で、友尾はいま、柔道整復師の資格取得を目指した日々を送っている。柔道整復とは日本古来の伝承医学で、ねんざや骨折などの怪我の診察・処置の技術である。スポーツ現場でトレーナーとして活躍する柔道整復師も多い。

 待ち合わせ場所にあらわれた彼は、驚くほど細身の青年だった。「ラグビー」「日本一」「トライ王」のワードから連想されるこちらの固定観念を鮮やかに裏切って、物腰はなお柔らかく、どことなく「ほんわか」している。そうと言わなければ、荒々しいラグビーの世界でトライをもぎ取ってきた男だとは誰にも気づかれないにちがいない。

「放っておくと、やせてしまうタイプで……。これでも頑張って食べてるつもりなんですけど」

 イメージと違ってすいません、と恐縮する。

 友尾龍二は高校を卒業後、福岡を飛び出し大阪の関西大学に進んだ。高校で日本一を取ったこともあって、「燃え尽きた」と感じないわけではなかったが、推薦で誘ってくれた同大学でもラグビー部に所属して、慣れない大阪で初めての一人暮らしをしながら、学校とグラウンドと自宅を忙しく回る日々を送った。

 彼の中でいったんは消えかけた「ラグビーの火」がふたたびついたのは、3回生の時だったという。

「そのシーズン、大好きな先輩方が、Aリーグ(1部)昇格を果たせず、負けて号泣しているのを見て、『来年は勝たせてあげたい』と思ったんです。来年はもう1回、本気でやるぞと」

 自分の長所である走りやステップを磨きに磨いたそのシーズン、関西大学は39年ぶりにAリーグ昇格を果たした。昇格をかけた摂南大との入れ替え戦、左ウイングで先発出場した友尾は先制を含む2トライを挙げる働きで、見事に勝利の立役者となった。

「あの時、ラグビー人生で一番泣いたかもしれないです。先輩たちには『泣くなや』って言われたんですけど、『いや、泣きますよ』みたいな」

 涙もろい性格だ。試合の後、グラウンド上でかがんで泣く友尾のその姿もまた、You Tube に見つけることができる。

「何でもアリ」だったから。

 友尾龍二は、1991年、福岡県糸島市で生まれた。福岡市の西隣に位置する同市からさらに西に行くと、佐賀県の唐津である。玄界灘に突き出た半島の、近くの林を抜ければ砂浜が広がる中学校で、友尾はラグビーをはじめた。夕陽が沈むビーチの思い出は鮮明だ。

「部活帰りに、みんなでよく海に行きました。特に夏は練習ですごく汗をかくので、その汗を流しに行きたくなるんです。すごく綺麗な海で、気がついたら日が暮れていて、けっきょく練習時間よりも長く海で遊んでいたこともありました」

 小学生までは、足しか使ってはいけないサッカーや、細い棒にボールを当てなくてはいけない野球など、「制約のある」競技がどちらかというと苦手だった。唯一続けていたドッジボールは、中学校にクラブがなかった。だから中学入学後、どの運動部に入ろうか迷っていた時に友達が誘ってくれた一言が、人生を変えてくれた。「ラグビーするばい!」。

 はじめてみれば、すぐに夢中になった。このスポーツは「何でもアリ」だったからだ。手を使ってもいい。足でボールを蹴ってもいい。身体をぶつけてもいい。何より彼には、生まれ持っての脚の速さがあった。ラグビーと出会ってはじめて、友尾はグラウンドを思う存分に駆け回ることができた。

 その前年、友尾は小学6年生のときに父親を亡くしていた。現在も帰省で福岡の実家に帰ればまず仏壇に手をあわせ、天国の父に近況を報告するのだという。

「好きなラグビーを大学まで続けることができたのも、父が亡くなった後、母や多くの人が支えてくれたからなんです。高校時代の恩師が常々『感謝の気持ち』という言葉をつかわれていたんですが、自分はその言葉の意味をよく実感することができました。だから父の影響は大きかったと思います」

 友尾という選手には、体格の不利を補う負けん気の強さとセンスがあったのだろう。タックルも得意だった。中学では九州大会まで進み、特待枠で入った強豪・東福岡高では、小学校からラグビースクールで鳴らした者も少なくない、100名を超す部員の中で、最終学年にしてレギュラーを掴んだ。

 高校の全国大会でトライ王になったことについて尋ねると、本人はこう謙遜する。

「褒めてくださる方はいるんですが、僕は“いただけ”というか……。周りの選手がすごかったので、ボールを持つときはいつも、敵がいない状況なんです。ボールを持って走るだけでした」

 サッカーに「ゴールの嗅覚」という言葉があるように、ラグビーにも「トライの嗅覚」がある。予測のつかないゲーム展開の中で、その瞬時瞬時に、どこにポジショニングするか、どのタイミングで走り込むか、どの角度で走るか……。適切な判断とアクションがなければ、トライは生まれない。ボールを持ったときに敵がいない、そのこともまた、優れたウイングであったことの一つの証だ。

「仕事ってなんだろう」

 高校ラグビーで全国制覇。一流私大の体育会でも結果を残し、4回生の時には主務も務めたという。その友尾が、就職の道を選ばなかったのはどうしてなのだろうか。おそらく大企業への入社も容易だっただろう。

「大学の先輩の方々が、大企業に就職してもすぐに辞められたり、転職されたりするケースを見聞きしているうちに、『仕事ってなんだろう』と思うようになったんです。仕事ってなると、これから40年はある。だったら初めから自分の本当に好きなこと、やりがいのあることをした方が、楽しんで生きられるかなと思って」

 大企業に就職すれば、異動で全国各地に“飛ばされ”たり、営業ともなれば毎日「数字」を見せられて、人と比べられ、競わされたりすることもめずらしくない。大きな会社のサラリーマンといえば聞こえは良いし、給与もそれなりに高いかもしれないが、そういう人生が「楽しい」かどうか、それはたしかに一概には答えを出せない命題だ。

「僕の場合は手に職をつけて、勤務地を自分で選べる立場になろうと思ったんです。柔道整復師の資格を取れば、好きなところに整骨院を開業することもできますし、もともと『福岡に帰りたい』という気持ちもあったので」

 大学時代、ラグビー部のトレーナーを務めていた整骨院の院長が、履正社医療スポーツ専門学校の卒業生だった。何か運動にかかわる仕事をしたい、と漠然と考えていた時期に、その先生から「トレーナーやってみいひんか?」と声をかけられたのが入学のきっかけだったという。

「柔道整復師は、選手と密接にかかわることができて、細かく、様々なアドバイスをすることができるところが魅力だと思っています。それに、その資格を取れば『機能訓練指導員』として病院やデイサービスの現場で働くこともできる。高齢者の日常生活の維持や向上を、利用者に寄り添ってサポートする仕事です。たとえば……座ったまま、足で杖をまたぐ動作があるんですけど、それが入浴時に足をまたぐことにつながったり。学校の実習でそういう機能訓練の現場を目の当たりにして、今はそちらの道にやりがいを感じるようになりました」

 卒業後は、現場実習でお世話になったデイサービス施設で経験を積み、ゆくゆくは福岡に根を張ろうと考えている。

「柔道整復の道に導いてくれた院長先生をはじめ、自分を育ててくれた人たちに、成長した姿を見てもらいたいです。これまで女手一つで支えてくれた母にも、早く恩返しがしたいと思ってます」

「ちょっとこっち向いてくれる?」

 ひとしきりのインタビューが終わり、「最後にちょっと撮影を」と申し出た。写真家が準備にとりかかる。「すいませんボクなんかで」と恐縮し通しの友尾と、つかの間の雑談となった。

「休みの日は、息抜きに何してるの?」

「そうですね……バイトのない日は、たまに一人で映画に行ったりします。最近だと、ちょっと前ですけど『海街diary』とか」

「綾瀬はるかが出てた」

「そうです。広瀬すずとか。あの四姉妹が豪華でした(笑)」

「今日のカメラマンさん、この前『海街diary』の監督さんを撮られたんだよ」

「ええっ、すごい」

 写真家がニッコリ笑う。撮影の準備が整ったようだ。

「はい、友尾くん、ちょっとこっち向いてくれる? 真っすぐカメラ見て」

 ぐっと前かがみにファインダーを覗き込んだ彼女に、友尾龍二がほんの少しタックルの目を見せた。

友尾 龍二 ともお・りゅうじ

1991年5月10日、福岡県糸島市生まれ。中学入学と同時にラグビーを始める。東福岡高校では3年生でウイングのレギュラーを獲得し、09-10年シーズンの全国高校ラグビーフットボール大会ではトライ王の活躍。同校の無敗での高校3冠に貢献した。12年、関西大学3回生時の関西大学リーグ入れ替え戦では、同校を39年ぶりのAリーグ昇格に導く2トライを挙げる。大学卒業後の14年、履正社医療スポーツ専門学校の柔道整復学科に入学し、現在3年生。最近の趣味は映画と遺跡。「発掘品とかに興味があります。エジプト展とか、ありますよね。そういうのが好きで。ペルーのマチュピチュがもうすぐ崩れてしまうと聞いたので、もし可能ならそれまでに行きたいです。でも、今日撮影していただいて、なんとなくカメラにも興味が出てきてしまいました」

写真/平野愛 文/釜谷一平

※所属・肩書きは取材時点のものです

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