
こんにちは、履正社国際医療スポーツ専門学校 広報Mです。
前回に引き続き、柔道整復学科の卒業生、小林晃徳さんのインタビューその2をお届けします。
名門・大阪桐蔭高校野球部出身の小林さん。2005年、高校3年生のときに夏の甲子園大会に出場、大会ベスト4の戦績を残しました。
野球一筋だった小林さんを、医療の世界に導いたきっかけは何だったのか?
履正社柔道整復学科時代の思い出を、たくさん語っていただきました。

小林さんプロフィール&前回の記事(vol.1)はこちら
野球コーチになるつもりが、柔道整復師に!?
――前回は小林さんの野球遍歴と、甲子園出場時のエピソードをお話しいただきました。高校卒業後はどんな進路を選んだんですか。
「近畿大学に進学しました。もちろん、大学でも野球を続けて。卒業後は社会人野球チームに入ることを目指していましたが、実力不足で。結果、自動車ディーラーの会社に一般就職し、営業の仕事をしていました。入ってから気づいたんですけど、それほど車に興味がなくて(笑)。1年ほど頑張りましたが、退職を決めたんです」
――そこからどうなったんですか?
「大阪桐蔭時代、お世話になった担任の先生が履正社専門の野球コースにいらっしゃったんです。それで、相談に行きました。コーチとかさせてもらえないかなぁ、と下心もあって……。そうしたら、『うちの専門学校では柔道整復師の資格が取れる。多くの野球トレーナーが持っている資格だよ』と紹介されて。『じゃあ行きます』と2つ返事で入学を決めました」
――高校時代のケガの経験から、医療の道を目指したわけではなかったんですね!
「そうなんですよ。先生の圧に負けて(笑)。帰り道、『なんでコーチやらんか、って言ってくれへんかったんや……』って思っていました。まさか学校に入り直すことになるとは」


覚えることが多すぎて、毎日、頭がパンク寸前。
――柔道整復学科に入学後、学生生活はいかがでしたか。
「何しろ大学まで野球漬けで、勉強をあまりしてこなかったので……。覚えることが多くて苦労しました。特に入学してからの1年間は、毎日、頭がパンク寸前で。勉強の仕方もわからず、地元の友達に『どうやって勉強してたの?』って、聞きに行ったりもしました。生理学とか、めちゃくちゃ難しかったですねぇ。公衆衛生学も難しくて、なかなか頭に入ってこなかったです(苦笑)」
――柔道整復学科は野球好きの先生が多いので、有名人だったのでは。
「はい(笑)。先生方とよく一緒に写真を撮ったり、桐蔭時代の話をしたりしました。『高校時代のユニフォームを持ってきて』、って頼まれたこともあります。すごく可愛がっていただきました」
――先生方との関わりの中で、影響を受けたことはありますか。
「学科長の田中雅博先生に、『大阪に、野球に特化した接骨院がある』と教えていただいたことです。今の僕の治療院の業務スタイルを考える上で、ヒントになりましたね」
――ほかに、履正社柔整で良かったと思うことは?
「アメリカでの海外研修です。御献体(解剖学の教育、研究のため提供された献体のこと)を間近で見られた経験は本当に貴重で。身体の構造がはっきりとわかり、その後、治療のイメージがしやすくなりました。実習先の病院で、肩の手術の様子を見学させてもらったこともあります。病院とドクターのご厚意で、あくまで離れたところからでしたが、これもめったにないこと。『履正社で良かった!』と強く感じましたね」
――卒業後は、三重県四日市市にある富田浜病院に入職されました。
「田中先生の推薦です。スポーツ外来で有名だったので、勧めてくださったのだと思います」
――どんな職場でしたか。
「常に勉強して、自身をアップデートするのが当たり前の環境で、たくさんの研究論文を読みました。そこで、『これ、現役選手の時に知りたかった!』と思うような新しい知見にたくさん出合ったんです」
――たとえば、どんなことですか。
「『こうすればスイングスピードが速くなる』『球が速くなる』といった、野球動作に関することです。こんな有益なエビデンス、グラウンドに全然落ちて来ない。監督やコーチ、選手がこういう情報を少しでも知っていたら、野球がもっと上手くなるはず。そう思いながら勉強していました」
次回は最終回。病院勤務を経て、自身の治療院を開業した理由や、野球教室を始めることになった経緯について伺っています。ご期待ください。
柔道整復師って、どんな仕事? 小林さんのお仕事紹介はこちら(RISEISHA仕事図鑑)
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