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【vol.1】柔道整復師×野球指導の二刀流! 卒業生・小林晃徳さんインタビュー

こんにちは、履正社国際医療スポーツ専門学校 広報Mです。
みなさん、夏の甲子園は観ていましたか。今年も熱戦が繰り広げられ、素晴らしかったですね。

実は本校にも、甲子園出場経験を持つ卒業生がいます。
しかも現在、治療家×野球指導の二刀流で活躍中です! 

その人は、2014年に柔道整復学科を卒業した小林晃徳さん。
小林さんは大阪桐蔭高校野球部出身。3年時に主将を務め、2005年、夏の甲子園に出場しました。

準決勝では田中将大選手(現・巨人)を擁する駒大苫小牧と対戦。大阪桐蔭が2点のビハインドを追う8回裏、3番バッターだった小林さんは田中選手の高めに浮いたスライダーを逃さず、1塁線を破るタイムリー2塁打を放ちます。続く打席でランナーがさらに進み、結果、試合は延長戦に……。高校野球ファンの間で今も語り継がれる、名試合のひとつです。

そんな華々しい球歴を持つ小林さんですが、なぜ履正社の柔道整復学科に? 二刀流ってどういうこと? 本日より3回に分けて、小林さんの軌跡に迫ります。

第1回は、小林さんの野球遍歴について。甲子園の舞台裏についても語っていただきました。

Profile●小林晃徳(こばやし・あきのり)1987年、大阪府生まれ。近畿大学出身。大阪桐蔭高校野球部時代は主将および3番バッターを務める。2005年、平田良介(元・中日)、辻内崇伸(元・巨人)選手らと共に、第87回全国高等学校野球選手権大会に出場。大会ベスト4の戦績を残す。大学卒業後、一般企業勤務を経て本校柔道整復学科に入学。2014年、三重県四日市市にある富田浜病院へ入職。6年半の勤務を経て、同地に自身の治療院「あかほり接骨院」を開業する。2023年には少人数制野球教室「あかほりベースボールアカデミー」をスタートさせる

「今日も何とか、生きてたわ」。厳しい練習を乗り越えて。

――小林さんが野球を始めたのはいつですか。甲子園に出場したということは、かなり小さいころから……?
「いえそれが、遅いんです。小学6年生です」

――それはちょっと、意外です。
「それまで父親が、いろんなスポーツに触れさせてくれてはいたんです。ラグビー、バスケ、サッカー……、たくさんの種類のボールが家にあり、よく遊んでいました。とはいえ父は野球好きだったので、最終的には野球をさせたかったみたいです。でも、僕が自分から『野球をやりたい』と言うのを待っていたそうで。それで、やっと申し出たのが小6の9月。父親、よう待ったなぁ(笑)、っていう」

――その後は?
「9月に地元のリトルリーグに入団しました。でも当時の規定で、12月にはシニアリーグに移らないといけなくて、すぐ中学生のチームに練習参加しました。入団当初はそんなに強いチームではなかったけど、僕が中3になった頃は、関西ベスト16とか8ぐらいには顔を出せる感じになって。当時はキャッチャーでした。他の選手に負けない技術を磨こうと、中学3年間、バッティングは頑張りましたね」

――そこから大阪桐蔭入学まで、どんな経緯をたどったのでしょうか。
「ある日の公式戦の試合会場が、大阪桐蔭だったんです。対戦チームに、すでに大阪桐蔭に内定しているピッチャーがいました。それもあってか、(大阪桐蔭の)西谷浩一監督が様子を見に来ていたそうなんです。彼から2~3本ヒットを取った僕を見て、声をかけてくださったのがきっかけです」

――大阪桐蔭野球部は、厳しかったですか。
「はい、それはもう(笑)。毎日、死ぬ思いでした。練習が終わると『今日もなんとか生きてたわ……』みたいな、あの感じは今も覚えています。あの日々を乗り越えたから、自分は何があっても大丈夫、という気持ちがあります」

――3年時には主将も務められましたね。西谷監督が小林さんをキャプテンに指名したのは、「甲子園にかける想いが一番強かったから」と発言された新聞記事を読みました。
「ああ、それは……。僕、高1の冬に、離断性骨軟骨炎になり、左膝を手術したんです。その後、春のセンバツのメンバーを決める時期に、監督が『甲子園で使いたい』と言ってくださったんですが、膝の状態がかなり悪かった。それで『今の膝の状況だと、たぶん野球はできないと思います。今回はあきらめますが、その次は必ず甲子園に行けるようにします』とお話ししました。もしかしたらそれが、『誰よりも甲子園に行く気がある奴』と受け取ってくださったのかもしれません。まぁでも、監督が一番、僕を怒りやすかったんじゃないでしょうか (笑)。キャプテンって、怒られ役なんで」

――ケガをしていた当時は、どんな心境だったんですか。
「高1の秋の段階では、同学年でメンバー入りしていたのは平田良介という、後にプロ入りする奴だけでした。それが、春のセンバツのメンバーを決める頃には3、4人選ばれていたんです。ショックでしたね。メンバー入りしたくて頑張っていたのに、ケガをしてしまった。俺、何してるんやろう……って」

――この時のことが、今のお仕事につながる原体験に?
「手術後、ドクターやリハビリの先生が親身に寄り添ってくださったことはすごく印象に残っていて、そこは原体験といえますね。でも、柔道整復師を目指すことになったのは、もっと後になってからです」

小林さんの治療院は、県内の野球情報が集まる「ハブ」のような存在。野球チームの部員募集チラシがたくさん貼られています。院内には、大阪桐蔭時代の同級生でもある、平田良介選手(元・中日)のサインも。

甲子園大会で、逆転劇が多い理由。

――甲子園出場時の思い出を教えてください。
「甲子園って、不思議な場所で。試合するのがすごく楽しいんですよ。初戦は春日部共栄に、5回表まで6-3で負けていたんですが、そんな時ですら、めちゃめちゃ楽しかった。『ここでもっと野球がしたい。だから、勝ちたい!』みたいな気持ちがどんどん湧いてくるんです。甲子園の試合で逆転劇が多いのは、そういうことなのかもしれませんね。ほかにも、それまであまり活躍できていなかった選手が、普段以上の力を出したり。何が起きるかわからない舞台でした」

――その逆の、良くない想定外もあった……?
「あります。うちのエースは左で150㎞投げるすごい選手でしたが、メンタルが弱くて(笑)。観客の大歓声に驚いてしまい、調子を崩して点を取られてしまいました。中田翔に交代したらピシャっと抑えましたけど」

――後にプロ入りする中田翔さんは2学年下ですよね。小林さんから見てどんな後輩でしたか。
「生意気なことも言うんですけど、許せちゃう奴で。上級生からも可愛がられていました。甲子園に向かうバスで一度、僕の席の隣に座りに来たんです。音楽を聞いてたら、イヤホンを片方外してきて『何聴いてるんですか~?』って」

――高1が、高3の先輩に! 小林さんが優しいのを見透かされていたのでは(笑)。
「うーん、どうなんですかねぇ。でも、さすがにびっくりしましたよ。『一応言っとくけど、俺、3年のキャプテンやで?』って突っ込みましたけど(笑)」

今回のお話はここまで!

次回は、小林さんが柔道整復師を目指した経緯や、柔道整復学科時代の思い出について。野球一筋だった小林さんを医療の世界に導いたきっかけは何だったのか? ご期待ください。

柔道整復師って、どんな仕事?小林さんのお仕事紹介はこちら(RISEISHA仕事図鑑)
柔道整復学科の紹介はこちら

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