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理事長だより

vol.34 「100年目の新しい年にあたって」

令和4年(2022年)、新しい年が始まりました。学校法人履正社にとっては創立100周年を迎える節目の年にあたります。大正11年(1922年)、大阪市北区上福島に大阪府福島商業学校が誕生し、ここに履正社の歴史がスタートしました。

大正時代はわずか15年間の短い御代でした。その間、3年(1914年)に第一次世界大戦が勃発。日本は軍需景気で一時的に豊かになるものの、大戦が終わると長引く不況に見舞われました。合わせて世界中でスペイン風邪の感染拡大、12年(1923年)の関東大震災など、バブル経済が崩壊した後の震災や新型コロナウィルスなど、今と似たようなところがあります。
一方、民主主義を求める大正デモクラシーや、大正浪漫やモダニズムという当時としては斬新な文化が流行しました。大ヒット漫画「鬼滅の刃」や、小説を元にYOASOBIが作詞作曲した「大正浪漫」もこの時代を描いたものですね。私たちの地元大阪が「大大阪」と言われた時期でもありました。関東大震災の影響を受けた東京よりも大阪の人口が多くなり、世界の大都市人口ランキングで6位だったそうです。商工業もとても活気にあふれていました。そんな商都大阪にあって、「時代が求める商業人(会社員や実業家)の育成を旨として」大阪府福島商業学校は創設されたのです。

昭和は、日本の歴代元号の中で最も永く続いた御代で、20世紀の63年間を占めています。前半は、第二次世界大戦の敗戦から過酷な戦後復興など激動の時代となりました。第二次世界大戦が終結した20年(1945年)を境にして近代と現代に区切ることがあるそうですが、履正社の近代と現代も、まさに波瀾万丈そのものでした。昭和に入ると第一回卒業生を輩出。順調に充実を重ねていましたが、次第に軍靴の足音が大きくなり、ついには20年(1945年)6月、アメリカ空軍による大阪大空襲により大阪府福島商業学校は炎上、灰燼に帰したのです。戦後の10年間余りは、まさにゼロからの再出発であり、滝川小学校や神津小学校の児童たちが下校した後の教室を借りるなど、試練、雌伏の時を過ごしました。そして昭和の半ば頃から、日本が東洋の奇跡といわれる高度成長の中、年毎に豊かになるのに伴い、履正社も復興、発展を遂げていきました。45年(1970年)に専門学校とスイミングクラブを、60年(1985年)に中学校を設立して現在の基盤が固まったのです。

平成は、20世紀の最後の約10年間から21世紀へと続く31年間の御代です。その間に高等学校の男子バレーボール部、剣道部、テニス部、サッカー部、硬式野球部、女子硬式野球部などが大阪府代表として全国大会に出場。そして令和元年(2019年)、硬式野球部が夏の甲子園大会で全国優勝するという快挙を成し遂げました。

文武両道を通して、時代が求める人物の育成に取り組んできた履正社ではありますが、一度だけ、敢えて時代に迎合しなかったことがあります。それは昭和19年(1944年)3月、第二次世界大戦の最中、軍国主義一色の時のことです。当時、戦時非常措置方策により「商業学校は工業学校に転換せよ」との指令が国(軍)よりありました。しかしながら、学園をつくった釜谷善藏初代理事長・学校長はその意志が無いことを示して、工業学校に転換することを受け入れませんでした。結果、大阪府福島商業学校は生徒募集不能となり、最後の学年が卒業すると同時に廃校となったのです。この選択は、当時としては相当勇気がいったことでありますが、創設時の「時代が求める商業人(会社員や実業家)の育成を旨とする」という信念を曲げることは決してなかったのです。まさに、履正社の建学の精神である「履正不畏(りせいふい)」「自ら正しいと思うことを何ものも畏れず正々堂々と実践すること」そのものの決断でした。

みなさんも、これからの人生において様々な出来事にぶつかって迷ったとき、「履正不畏」を想い出してほしいものです。私自身、100年目の新しい年にあたって履正社の歴史に想いを馳せ、決意を新たにしています。令和時代を共に歩んでいきましょう。

念のために:

大阪府福島商業学校は、昭和19年(1944年)に廃校が決定されましたが、その後、別の敷地で経営していたもう一つの学校、旧制履正社中学校を校名変更して現在に至っています。やはり同じ日に米空軍の空襲で炎上、焼失しましたが、学校法人履正社の歴史は連綿と絶えることなく続いていますのでご心配には及びません。

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