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理事長だより

vol.44「ちょっと調べるは、ちょっとした愉しみ Ⅳ」

この理事長だよりで、履正社100周年に因んで100年前の大阪を見てみる「ちょっと調べるは、ちょっとした愉しみ」シリーズも4回目となりました。今回は「働き方」をテーマに、あわせて派生したものをちょっと調べてみました。

100年前の1920年代、大正時代の大阪は「大大阪」と言われ、東京を上回る日本一の都市だった時代があることは以前記載しました。背景には1923年に起きた関東大震災の影響で、東京が大きく被災したという要因がありましたが、当時の大阪は真に活気あふれる街でした。そのころ、お菓子のグリコ(1922年創立)、自転車メーカーシマノ(21年)、サクラクレパス(21年)と、私たちにもなじみのある企業が数多く大阪で創業され、今に時を刻んでいます。

また働くスタイルにも変化が見られます。明治時代になると西洋のビジネス、会社の考え方が日本に入り、契約や勤務時間という概念が入ってきました。江戸時代から続いた幼少期から商家に住み込み、年季奉公で勤める丁稚や手代のような雇用形態が影を潜め、毎月定額の給料をもらって家から通勤する「会社員」やがて「サラリーマン」と呼ばれる人たちが増えていきました。

東洋経済オンラインに掲載されていた早稲田大学の原克教授の記事によると「1920年以降の産業構造の変化の中で、頭脳労働者として事務職層のボリュームが増えていったのです。そこで現在のサラリーマンの原型ができあがったと言っていいでしょう」と述べられています。

同じ時期履正社が設立した大阪府福島商業学校は、まさにこの頭脳労働者である「サラリーマン」の養成を視野に開校した学校なのです。

関西の電鉄による沿線開発も当時の人々のライフスタイルに影響を与えました。履正社高校・中学校が位置する阪急宝塚線は明治から阪急グループ創始者の小林一三氏により田園地帯を住宅地として開発された地域です。

1910年、池田室町住宅地販売が始まります。 この頃から一戸建て庭付きの家は富裕層向けのものでしたが、小林一三氏により今の住宅ローンのように、年数をかけて月々返済するシステムで売り出されました。そうすることでサラリーマン層でも一戸建てが買えるようになりました。やがて豊中や桜井(箕面)や宝塚も開発されていきました。

郊外に住宅ができ、電車で通勤する人々が多くなると、電車に乗って帰る間の読み物として、駅の売店で売られる夕刊紙が誕生します。南大阪新聞(産経新聞の源流)も本校と同じ1922年に創刊。今ではテレビやスマホで瞬時にニュースが飛び込んできますが、当時ニュースは新聞で知るのが一般的でした。

三島由紀夫の作品に「前に立っている乗客がひろげている夕刊新聞の印刷インクの匂(にお)い」と阪急百貨店で買い物をした主人公が阪急電車の宝塚行きに乗って岡町へ帰宅する姿を描写したものがあります。これは1950年に出版された小説ですが、舞台が本校最寄り曽根駅の次の駅なので、なんとなく身近なイメージがわいてきます。

でも今では、電車の中で新聞を読んでいる人はめっきり減りました。みんなスマホを見ていますね。

少し前までは満員電車に乗って朝早くから通勤というのがほとんどでした。今はテレワークも当たり前の時代です。パソコンに向かって仕事するのに、時間や場所は選びません。働き方もどんどん変化してきている。あと少ししたらサラリーマンという呼び方は、丁稚や手代のように死語となり、新たな働き方に相応しい呼び名になっていくことでしょう。

イノベーションが繰り返され、様々なものやことが生まれては消え、形を変えていく。次の時代はどうなっていくのでしょうか。若い皆さんに期待し応援しています。

【参考文献】

■東洋経済オンライン:早稲田大学 原克教授「こんな働き方があっていいじゃないか」

https://toyokeizai.net/articles/-/21586

■阪急電鉄の創業者 小林一三

阪急電鉄の創業者「 小林一三 」阪急電鉄 (hankyu.co.jp)

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