高祖 和弘

第8回 高祖 和弘

photographs by Naohiro Kurashina

元Jリーグ監督の、人生教室。

かつての名ゴールキーパー、Jリーグ監督にして、生粋のコーチ。
英語、ポルトガル語も自在に操るこの国際派サッカー人は、
なぜ来る日も来る日もグラウンドに立ちつづけるのか。
インタビューをもとに、その情熱と独自の教育観に迫る。

2017年10月26日

 丘の上、緑の芝のグラウンドに、エネルギッシュな声がこだましている。

「もっと正確に! 早く! もっと早く! ヴァイ! ヴァーイ!」

「ヴァイ」は「さあ行け」を意味するポルトガル語だ。ここは大阪府茨木市にある履正社医療スポーツ専門学校のサッカーグラウンド。必死の形相でボール回しのドリルを行う学生たちを、ゼネラルマネージャー(GM)である高祖和弘が言葉で駆り立てる。

「もっと声出していけよ!」

 3分の1ほどの年齢の学生たちよりも、3倍は大きな声量で指示を飛ばす。試合形式の練習で惜しいシュートが外れると、高祖は頭を抱えてしゃがみ込み、こう叫んだ。

「マンマ・ミーア!」

 ダイナミックなボディ・ランゲージに加え、普段から英語やポルトガル語を自在に駆使することもあって、高祖には、どことなく日本人離れした空気が漂っている。ダンディーにたくわえられた口元のヒゲ、精悍に引き締まった肉体と日に焼き締められた肌、そして深い瞳は、彼のこれまでのタフなサッカー人生を物語っているように見える。

九州一のゴールキーパー。

 高祖和弘は、サッカーひと筋で生きてきた。

 佐賀東高校から天理大学へ進み、1981年からガンバ大阪の前身にあたる松下電器産業サッカー部でゴールキーパーとして活躍。現役引退後、指導者の道に進み、ガンバで本並健治、岡中勇人、都築龍太といった守護神を育てあげた。2000年には故郷に戻ってJ2サガン鳥栖の監督に就任し、退任した後は清水エスパルスの強化部門を経て、ユース、ジュニアユースチームのGKコーチとして育成年代の指導も経験している。

 選手としても、指導者としても確かなキャリアを備えているが、その歩みはユニークだ。

 本人が来歴を振り返る。

「小学6年生でサッカーを始めた時から、ゴールキーパーでしたね。それまで野球をやっていたからボールが怖くなかったのと、小さい時から柔道もしていたので、受け身に慣れていた。だから身体を投げ出してボールを止めるのが、最初から平気だったんです」

 中学に入ると、早くも「九州一のゴールキーパー」として話題を呼んだ。

「公立校だったんですが、たまたま巧い選手が集まっていたおかげで、全国大会でベスト8まで勝ち上がったんです。それで僕も高校では強豪校でサッカーをやるつもりでいたんだけど、オヤジが『行かん方がよか、サッカーでメシば食われんけん、大学行ってサラリーマンにならんね』と反対してね。実家は養鶏場と農業をやっていたので、盆も正月もなかったから、その大変さが身に染みていたんでしょう。安定した生活を送らせたいという親心だったのかもしれませんね。僕も素直な子供だったから(笑)、『そんなもんかな』と受け入れて、勉強して進学校に行きました」

 ところが高祖のゴールキーパーとしての才能は、進学校でも埋もれることはなかった。高校1年時から佐賀県選抜チームに加入し、3年連続で国体に出場する。当時には珍しく、足元の技術もあり、フットワークによる細かいポジショニングがウリのキーパーだった。

「僕、中学からはフィールドプレーヤーもやってましたからね。高3の時の国体では、前半はDFのストッパーで出て、後半はゴールキーパーで出たなんて試合もありました。二刀流というか、(現在、世界最高のゴールキーパーの一人と言われるドイツ代表の)マヌエル・ノイヤーの先駆けですよ!(笑)。後になって海外の友人たちから、『お前は生まれるのが10年早すぎた』って言われたくらいです」

履正社の人:高祖 和弘
サッカーでメシを食う。

 結局、スポーツ推薦で天理大学に進み、卒業後は、松下電器産業(現パナソニック)で“セミプロ”になる道を選んだ。Jリーグが発足する10年以上も前の話だ。

「オヤジは『サッカーではメシは食えない』と言っていたけど、松下では会社員として給料をもらいながら、サッカーを続けられる。どっちもかなえられる理想的な環境でした」

 当時、サラリーマンとして社業を経験したことが、指導者としての血肉になっていると高祖はいう。

「サッカー部の選手も出社時刻は一般社員と同じ。午前中はデスクワークをこなして、午後から練習というスケジュールなんですが、だいたいの先輩たちは朝から喫茶店でお茶を飲んで暇をつぶしてた。まあ、大らかな時代でした(笑)。ただし、僕が配属された人事課の課長はすごく厳格でね。『社員である以上、社業はきちんとやるべし』という方針でした。僕は最初はコピー取りとかの雑用をやらされてたけど、1年経ったら、新人の教育係を任されるようになった。社の創業者である松下幸之助の教えを、新入社員に伝えるという大切な役回りです。『松下電器は何をつくるところか? 人をつくるところです。あわせて電気器具もつくっております』という(笑)。でも、あの時に『人をつくる』という松下イズムを叩き込まれたことが、後々に生きてくるんです」

 入社当初、松下電器は日本サッカーリーグ(JSL)の下部組織である奈良県リーグに所属していた。そのクラブが一つ上の関西リーグ、JSL2部、JSL1部へと昇格し、そして90年に天皇杯で優勝を果たすまで、高祖は10年にわたり、主力選手としてチームの躍進を支え続けた。現在のガンバ大阪の礎を築いた立役者のひとりであると言ってもいい。

「1990年、選手生活の終わりが見えてきて、セカンドキャリアを模索しはじめた時期でした。そんな矢先に、『コーチの資格を取れ』と上から言われて。資格を取るためには、日本体育協会と日本サッカー協会が主催する年2回の合宿に参加しなくちゃいけない。社業をこなしつつ、チームでは選手兼任コーチとして後進を育て、その合間に徹夜でレポートを書いて、合宿にも参加する……。キツかったけど、あの時がんばったおかげで、今、トップチームの指導者になれるS級ライセンスを持っているわけです」

 2年後のJリーグ発足にむけて、指導者の養成が急がれていた時期だった。合宿では、岡田武史、加藤久、山本昌邦といった元日本代表たちと一緒に講義を受けたという。そして91年に現役を引退すると、幹部から請われるかたちで、「ガンバ大阪」として生まれ変わるチームのコーチに就任した。

「社業では係長に昇進していたので、本当はサラリーマンをやるつもりだったんです。でも、『1年でいいから来てくれ』と言われたので、長年お世話になった恩返しのつもりでガンバ大阪に出向しました。で、結局2年間コーチをやって、サラリーマンに戻ろうとしたら、『今から帰ってきてもイスはないぞ』と。往復切符だと思っていたのに、片道切符だったんですよ。そこからはサッカーだけでメシを食っていくほか、なくなっちゃった」

サンパウロ空港の免税店で。

 高祖には、もともと強い海外志向があった。

「大学時代に、試合で韓国遠征に行ったのが生まれてはじめての海外でした。すごく興味深かったですね。見るもの、食べるもの、異文化とはこういうものかと。『ああ、もっと見てみたい。もっと行ってみたい』と思って。進路を松下電器に決めたのも、入社後すぐに東南アジア遠征に行けると聞かされたから(笑)。『世界の松下』だったら、海外に行ける機会は多いだろうという期待があったからかもしれないですね」

 91年のことだった。その年の正月に天皇杯優勝という快挙を成し遂げたチームに、「世界の松下」はブラジル遠征をプレゼントした。サンパウロ、パルメイラスといった名門クラブチームと親善試合をしながら、各地を回る招待ツアーだった。

 その遠征の初日、長時間のフライトを経てようやくたどり着いたサンパウロ空港の免税店で買い物をしようとしたところ、レジの店員のポルトガル語がわからない。困っている高祖を見かねて「どうしたんですか」と日本語で話しかけてくれたブラジル人女性が、後に高祖の妻となるデボラさんだった。

「初めて会ったブラジル人の女性が今の奥さん(笑)。彼女は日本語を勉強していたから、会話ができたんです。帰国してからは、ブラジルと日本という超遠距離でね、インターネットもない時代だったから、連絡取るのにも大変でしたよ。何度も電話するうちにポルトガル語を片言で覚えました」

 当時はまだ、国際結婚に対する周囲の理解も今ほどではなく、逆風も強かったようだ。

「実際に一緒に暮らしてみると、日本人とブラジル人では物の見方や考え方が随分違う。お互い理解するのがすごく大変でした。それでも、たとえば文化面では宗教に対する想いだとか、家族愛や家族の強い絆といったことを、彼女からたくさん学ぶことができたと思っています」

 プライベートで異文化コミュニケーションを磨くかたわら、本業のサッカーコーチの舞台でも、高祖は後にガンバ大阪の監督となるジークフリート・ヘルト、ヨジップ・クゼ、フリードリッヒ・コンシリアといった外国人コーチたちと議論を重ねる中で、自然と英語を習得していったという。

「技術論、戦術論や文化論にいたるまで、毎日のようにカンカンガクガクやりあって、それで英語を覚えたんです。日本では知ることができなかったヨーロッパのサッカー観に直接触れて、ものすごい刺激を受けました。まるで、大阪にいながら海外で暮らしているみたいな日々でした」

履正社の人:高祖 和弘
「人をつくる」という使命。

 晴れて結婚をはたした後、1年間をブラジルで過ごした。

「奥さんの家族に不幸があり、思い切ってブラジルに移住するつもりで行ったんですけど、色々と仕事のトラブルや理不尽なことが続いて、無職になってしまったんです(笑)。向こうでは僕の日本での経歴なんか、何にも関係ないですしね。サッカークラブの練習を眺めたりしながら、『なんで俺、こんなところにいるんだろう』って。ネガティブな精神状態が半年間ほど続きました。でも、古代ギリシアのアポロン神殿に書いてある古い格言で、『汝自身を知れ』ってありますよね? その言葉の通りで、肩書とか資格とか実績を取っ払ったときに、自分がどういう人間なのか、真正面からじっくり見つめ直すことができたんです。その結果、怖いものなんて無いというか、物事を何でもポジティブにとらえられるようになった。そうしたらね、良いご縁ばっかり巡ってくるようになったんですよ。あの1年間は人生のターニングポイントだったと言えるかもしれないですね」

 帰国した高祖は、2000年、当時J2のサガン鳥栖の監督に就任した。

「佐賀県は僕の故郷でもあり、サッカー人生の原点ですから。これほど光栄なことはなかった」

 1年目は、JFLから昇格2年目のチームを6位に導く手腕を発揮。そして2年間の在任期間中は、選手の指導だけでなく、チームを地域に根づかせるため、行政やマスコミ関係者、企業関係者とも良好な関係を築くべく、みずから広報活動にも走りまわった。実現はしなかったが、その「人を巻き込む力」を見込んだフロントサイドから、「クラブの社長に就任してほしい」という要請まであった。

 その後、清水エスパルスでの仕事を経て、05年に履正社医療スポーツ専門学校サッカーコースのGMに就任したのは、「人をつくる」という使命感があったからだという。

「天理大学時代には教職もとったし、もともと教師に興味がありました。僕、ガンバをやめた後に1年間だけ通信制高校で指導者をやったんですが、そこがまた刺激的な現場で。不登校だけど、サッカーが大好きな子供たちを受け入れていた学校でね。登校拒否の子、保護観察の子、少し心身にハンデを抱えた子たちがマンションで共同生活しながら、サッカーによって協調性や社会性を学ぶという実践的な教育もやっていた。僕も寮長としてそこに住み込んで、毎晩のように“教育的指導”をして、毎朝近所の清掃活動でたばこの吸い殻なんかを掃除して……。ブラジルの焼肉『シュラスコ』をみんなでやったりもしました。98年のフランスW杯の頃だったかな、仲が良かったエムボマ(元カメルーン代表で、ガンバ大阪の選手)を呼んで、話をしてもらったことがあります。そんなことを熱心にやっているうちに、子どもたちがみるみる、素晴らしい人間になっていくんです」

 サッカーを通じた教育。いつのまにかそれは、高祖のライフワークとなっていた。

「松下イズムもそうだし、サッカーを教えることも、人をつくる作業です。これが、僕が神様からもらった使命だと思ってるんですよね。ゴミが落ちていたら拾う、困っている人がいたら助ける、そういった当たり前のことを素直にできる人を、サッカーの現場で育成する。それがここならできると思ってます」

 履正社医療スポーツ専門学校のサッカーコースに在籍する学生の進路は実にさまざまだ。選手として実業団に進む。指導者の資格を取ってコーチの道に進む。審判を目指す。アスレティックトレーナーや医療の資格を学内で取得してトレーナーを目指す。大学に編入し、教員になる。海外留学の道を選ぶ。一般企業に就職する……。多種多様な若者たちの「人生の分岐点」に接するにあたり、高祖が掲げる教育目標はブレない。

「生徒たちの経歴は千差万別。体力のレベル、技術的なレベル、そして将来の目標も、みんなバラバラ。そんな彼らを2年間という限られた時間で、いかに導いていくべきか。日々進化を続ける世界のサッカーのトレンドを分かりやすく伝えるのはもちろんだけど、最も大切なのは正しい人を育てる、という信念なんです。肉体やテクニックを鍛えあげるのには時間がかかるけど、意識は一瞬で変えられるもの。意識が変われば、おのずと行動も変わってくる。学校の校訓も『正しきを履むことを畏れるな』ですから。そのために、僕のこれまでの人生は全部つながっているんだと思っています」

 晴れの日も雨の日もグラウンドに立ち、日本語と英語とポルトガル語が入り交じる独特の口調で、高祖は生徒たちに語りかける。天命を帯びた男のボルテージは高い。

履正社の人:高祖 和弘

こうそ・かずひろ
1959年3月6日、佐賀県佐賀郡(現佐賀市)生まれ。小学校6年でサッカーを始める。ポジションは当初からゴールキーパー(GK)。佐賀東高校卒業後、天理大学を経て、1981年に松下電器(現パナソニック)に入社。主力選手として、同社サッカー部の日本サッカーリーグ(JSL)1部昇格と天皇杯優勝に貢献する。91年に現役を引退し、97年まで同チーム(92年、「ガンバ大阪」に名称変更)で専任GKコーチをつとめた。98年、司学館松下高等学院サッカー部監督に就任し、99年には妻の故郷であるブラジルで1年間を過ごした。2000年から2年間、J2サガン鳥栖の監督をつとめ、02年からは清水エスパルスで強化部門スタッフ、ユースGKコーチを歴任。05年より履正社医療スポーツ専門学校でサッカーコースGM、および履正社FC監督をつとめている。日本サッカー協会公認S級コーチ。最近のマイブームは猫のえさやり。「奥さんがはまっちゃってね!捨てられた猫を引き取ってきて、今は家に19匹いる。和室のふすまも畳も、もうボロボロです」

写真/倉科直弘 文/芦部聡

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