森岡正晃先生イメージ

第3回 森岡正晃 野球コースGM

photographs by Ai Hirano

PL野球の炎は消えない。

10月20日、プロ野球育成ドラフト会議で東北楽天が指名した
最後の男――それは履正社医療スポーツ専門学校の投手だった。
無名の高校生の“根っこ”に水をやり、花を咲かせた指導者が、
オリジナルな教育哲学と、知られざる自身のルーツを語る。

2016年12月14日

 履正社の専門学校に「野球コース」ができて、11年目になります。僕は初年度から指導をさせていただいていますが、今年、はじめてプロ野球の道に進む子が出ました。他にも社会人野球に内定をいただいている子がいたり、日本で唯一、国際公式記録員の養成をしていたり……。これまで育ててきたつぼみが、少しずつ花を咲かせてきたかなと思っています。

 だけど、少し視点をずらせば、うちの野球コースには消防士になる子も、警察官や教員になる子もいます。つまり僕がやらなくてはいけないことというのは、「人作り」ですよね。どれだけ野球が上手かろうが、この子は目配りや心配りができてないなと思った時に、「この子らには2年間しかない」「これ、教えられるかな? わかってくれるかな?」っていう気持ちになることが多いですね。

 もし野球だけで就職できなくても、大人になれば、まずは良い親父になるのが先やし、良いお母ちゃんになるのが先です。その良い親父、良いお母ちゃんになるためにはやっぱり経済的なものが必要やし、社会に貢献する気持ちというものが大事になる。僕は、それを与えてやれる最後の砦が教育だということを、今までの人生で学ばせていただきました。

グラブみたいな、江夏の手。

 自分の子供の頃を振り返ると、物心がついた時から周りにボールやビニールのバットがある環境でした。とにかくオヤジは阪神ファンですし、野球が最も身近にありましたので、小学校1年生の時に大阪・梅田の阪神百貨店でユニフォームを買ってもらって、町内会のソフトボールに通いはじめました。

 ユニフォームを買ってもらった日だったと思いますが、阪神百貨店にタイガースの江夏豊さんがサイン会に来られていて、「ちびっ子、がんばれよ」と声をかけてもらった。それが初めてのプロ野球選手との出会いでした。握手をすると、江夏さんの手が手じゃないんですよね。まるでグラブみたいで。豆だらけで、ゴツゴツしていて、デカい。「あれくらい練習しないとアカンぞ」とオヤジに言われたことを覚えています。

 親には野球の道具を贅沢に与えてもらいました。おかげさまで、中学までは野球では誰にも負けないし、足も速いし、ずっと“お山の大将”でしたね。それが中学2年生の時に、友達が今でいうヤンチャで、僕もそういう容姿をするようになって。半分グレかかったことがありました。その友達はラグビーをしていて、「森岡も体がゴツいんやから、ラグビー来いよ」と誘われましてね。ある日、オヤジに「ラグビーに移ろうかな」ということを言ったんです。オヤジは、「お前が選ぶ道や。好きにやれ」と言ってくれたんですが、当時、大反抗期の僕がその場にいた母親に対して、余計な言葉を吐いてしまった。「生まれた時から周りにボールとバットばっかり置いて、俺に野球をさせるように仕組んだんやろ」というような言葉でした。

 それを聞いて、オヤジは火のように怒りました。今でも覚えていますけど、すぐ僕を正座させて、「俺の目の前で、俺が今まで買った野球道具を全部ゴミ箱に捨てろ」と。「捨てて、お前のやりたいことをやれ。それでケジメをつけたる」と言われましてね。そんなに真剣に怒られたことは、過去にありませんでした。僕は「申し訳ありませんでした。もう一度野球をさせてください」と謝ったんですが、その時に初めて母親が、僕が生まれる前の話をしてくれたんです。それはオヤジの昔の話でした。

「この子がもし男の子だったら」

 オヤジは昭和ひとケタ生まれの男だったんですけども、中学まで野球の選手で、その当時で身長が180㎝もあるピッチャーでした。名門の浪商高校から声をかけられて、近鉄バファローズが発足する時にはテストに合格したほどの選手だったそうです。ところが、当時は戦争が一番きつい頃でね。職業野球、今で言うプロ野球の選手になりたいと自分の親に言ったら、「お前はアホか」と。「野球で飯が食えるか」と言われて許してもらえなかった。兄弟はみんな戦争に出ていて、一家には稼ぎ手がいなかったんです。それで、新聞配達やら色々なことをして、15歳から必死に働いたと言っていました。

 その話をした後、母親は僕に言いました。「別にお前に野球をやれと強制はしなかったんやで。ただ、お父さんは好きな野球ができなかったから、お前がお腹の中にいる時、『もしこの子が男の子で、いつか野球をしたいと言ったら、何が何でもさせてあげるんや』って言ってたんよ」って。それを聞いて、ボロボロ涙が出てきましてね。「ああ、自分はこんなに恵まれた両親に育ててもらってるんだ」という気持ちが芽生えた瞬間でした。

「PL学園野球部」の生活。

 高校はPL学園に進みました。他の高校からも誘いはありましたが、弟がPL学園中学で剣道をやっていた縁で、PLに決めました。なにしろ、グラウンドは黒土で、外野は芝で、雨天練習場があって。「こんなん、プロ野球やん!」と。ユニフォームも普通の高校と違ってカッコええ。そういう感覚でした。

 PLは、僕が入学した1978年に初めて夏の甲子園で日本一になるんですが、当時から各県の有名な選手ばかりが来ていましたし、入学は非常に狭き門でした。2つ上には木戸克彦さん(元阪神)、1つ上には小早川毅彦さん(元広島→ヤクルト)、1つ下には吉村禎章(元巨人)がいました。僕なんて井の中の蛙ですよね。正直言って、練習を見学しに行った時に、監督さんから「3年間、球拾いとグラウンドの草抜きでも文句言わんか?」と言われましたから。僕はどんなことでもするつもりでしたから、ギリギリで拾ってもらったという感じでしたね。

 いま振り返って、PL野球とは何だったのかと言われると、ひと言で言えば「人格形成」です。器作りをしてもらったと思っています。ブレることなく人生を歩むための、一本の線路に乗せてもらった。入学するといきなり、寮長先生から「君たちは灘高に入るより難しい難関を乗り越えて入ってきた、野球のエリートなんだ」と訓示をいただくところから始まります。「灘高に行けば東大に行くのが当たり前。君らは将来、野球でご飯が食べるのが当たり前。そうなれるように頑張りなさい」と。それがPLというところでした。

 野球部での生活はどうだった? と問われると、ひと言しかありません。「つらかった」。やめたい、逃げたいと思うようなことはしょっちゅうでした。練習が厳しいのは当たり前ですが、それ以上に、高校生の多感な時期に、テレビを見ることも新聞を読むことも許されないんですから。夜に寮の屋上の隅っこで、故郷の方角を向いて泣いてる下級生もいました。「もう帰りたい。何しにきたんやろ」って。そんな生活で唯一の楽しみは、週に1回のスーパーへのお買い物。学校の敷地内なんですけどね。毎月3000円のおこづかいの中で、1週間分のジュースとか、お菓子を買いました。それが待ち遠しくて待ち遠しくて。「ぱりんこ」って知ってますか? おかきなんですけど、そういうものを買ってました。

 ただね、寮は3年、2年、1年の3人部屋が基本で。後輩が先輩のお世話をする、いわゆる「付き人」制です。週に1度おやつを買いに行くのはいいんですけど、「先輩の前でお菓子を食べるな」という決まりがありました。エラそうな態度を取るなということですよね。じゃあ部屋でどうやっておやつを食べていたかといえば、ロッカーの中に顔を突っ込んで……口の中でお菓子が溶けて、音が消えるまで待って、飲み込む。ぱりん、って音が鳴るから「ぱりんこ」なんですけども、しんなりするまで口の中で溶かさなければいけないんですよ。まあ、先輩によっては「気にせず食べてええよ」っていう人もいましたけどね。部屋によって空気は違いました。

 中には、寝るときにラジオをかけてくれる先輩もいました。さっき、テレビも新聞も禁止だったと言いましたが、ラジオだけはOKだった。だから、夜10時の消灯後、「ヤンタン」(MBSヤングタウン)を聴くことは数少ない娯楽の一つでした。じゅうたんの床の上に布団を敷いて、1年生はドアのところに寝るのが決まりでしたから、部屋の奥の、先輩のラジオから聴こえてくる音を夢中で聴いていました。「ヤンタン」だけが、僕たちと外界との唯一の接点でしたね。当時流行っていたのは、五輪真弓や中島みゆきかな。「回るー回るー」って聞いただけで、寂しくなりますよ。サーカスの『Mr. サマータイム』を聴いたら、「ああ、燃えとった時期やな」と思いますね。

「あの先輩のスパイクを磨かせてもらえる」

 先輩方には、PLでの寮生活というものをみっちり教えてもらいました。洗濯の仕方に掃除の仕方、先輩のパジャマは必ず枕元にたたんで置く、とかね。ただ、グラブとかユニフォームとかスパイクは、こちらが「磨きます」と言っても、全部自分で手入れをされる先輩も多かった。「俺は下級生の時にそういうことをやったのがイヤだったから」という人もいれば、「お前にそれをさせたら、自分がエラーをした時に後悔するんや。悪いけど、触らせるわけにはいかん」という人もいました。実際、打てない時にバットを枕元に置いて、朝まで握って寝ていた先輩もいました。

 後年、付き人制度が色々と問題視されたこともありますが、僕らからすれば、憧れの先輩のユニフォームを洗わせてもらえる、スパイクを磨かせていただけるだけで光栄だったんです。試合のユニフォームは、自分の頭の上に置いて寝ていました。「あの先輩のつけておられた背番号を背負って、俺は明日大会に出れるんや」と感謝しながらね。PLってそういうとこでした。

 付き人は、たとえば雨天練習場で先輩のバッティングピッチャーもつとめました。すると、20球打った先輩が、「ちょっと3球打ってみるか?」。またある日は「今日は半分打ってみるか?」と。その場で先輩に技術を指導してもらえるんですね。だから僕らの時代、70年代の終わり頃は、「付き人制度」があってこそ、PLの伝統というものがしっかりと受け継がれていたのだと思っています。

 しかし、後の時代に、当時の監督さんが自主トレというものを練習のメインに置いた。さっきも話したようなバッティング練習ができるスペースというのは限られていますから、全体練習が終わった後、後輩に「お前、行って場所取りしてこい」となる。でも、その場所取りに負けると、先輩は1回寮に上がって、お風呂に入って、ご飯を食べた後にまたバッティング練習に行かないといけない。それが嫌だというんで、場所取りがうまくできない後輩を殴るというようなことが起きてきたそうです。もしかすると、そのあたりから、少しずつひずみが出てきたのかもしれません。

履正社の人:森岡正晃
PLのキャプテンを務めるということ。

 僕は有名でもなければ、プロに進むような選手でもありませんでした。ただ、3年生の時にPLの主将を任されました。なぜ自分がPLでキャプテンができたのか……。それは1年生の夏、全国制覇を果たしたばかりの主将と交わした会話がきっかけでした。当時の主将は、後に法政大、阪神タイガースと進んだ木戸克彦さんです。その木戸先輩が、日本一になった夜、寮で泣いてはったんです。

 深紅の優勝旗を掲げて甲子園の場内を一周、パレードまでして寮に帰ってきた後に、何で泣いてはるんやろう? と思ってね。「木戸さん、嬉しくないんですか」って言うたんです。「なんでや」と聞くから、「なんで泣いてるのか、僕には不思議です」と言ったんですね。そしたら、「お前、俺が泣いている気持ちが知りたいか」と。「だったら、キャプテンやってみろ。そしたら答えがわかるで」と。「いや、そんなん、僕にはキャプテンなんて無理です」「それやったら、お前には一生わからんでもええことや」というやり取りがあって。

 その時に木戸さんがね、「お前は確かに野球の技術はみんなよりも下手かもしれんけど、一つだけ、できることがあるで」と。「怒られるのも一番。褒められるのも一番。グラウンドに出るのも一番。何でも一番にやってみ。そしたら、ひょっとするかもわからんで」と言われたんです。それはもう、憧れの木戸さんに言われたことですから、僕はその言葉を信じて、ひたすら実践したつもりです。そしたら、3年生で本当に主将をまかせてもらうことになりました。まあ、木戸さんからは「お前がホンマにキャプテンか? 今年のチーム、最悪やな!」って言われましたけども(笑)。それでも未だにかわいがってもらえてね。アドバイスもしていただけますし。

 木戸さんが涙を流していた理由は、3年生の夏にわかりました。僕の代も必死になって日本一を目指したんですが、結局、大阪府の決勝で0-1で負けてしまい、夏の甲子園には出られませんでした。最後は押し出しデッドボールで終わってしまう、そんな幕切れでした。それでもね、正直、悔しいというよりもホッとする気持ちの方が強かったんですよ。「明日から俺はPLのキャプテンと言われずに済む」。解放された、という感覚ですよね。ああ、この重圧に打ち克って甲子園で優勝旗をとってくるということは、並大抵のことではないなと。木戸さんは、だから泣いてはったんやな、それまでのつらいことを全部思い出して、それから解放された涙やったんやろなと。最後に理解することができました。

大阪桐蔭の初優勝。

 高校卒業後は野球で近畿大学に進みました。ところが、慢性的な腰のケガの治療で飲んでいた痛み止めの副作用で、20歳になる前に肝臓がおかしくなって。これ以上痛み止めは打てないと医者に言われ、将来のことを考えて指導者の道を選びました。ちょうどその頃、恩師が大阪産業大学高校の監督をされていて、家が近かったんで、よく顔を出していました。ある時、「お前今日は大学の練習ないんか!」と言われるから事情を説明すると、「そうか。そしたら、俺の下でコーチやれ」と。「そのかわり条件がある。大学で教職を取れ。2年間で教職を取ってきたら、コーチやってもええぞ」。「いや、監督、たった2年で教職を取るのは……」「それやったら他に仕事探せ」。それで、人生で初めて、寝ずに勉強する生活がはじまりました。

 今までレポートひとつまともに書いたことがありませんでしたから、人の何倍も時間がかかります。1日36時間ほしい、と思うくらい勉強して、2年間で社会科の教職をとりました。それで、大学を卒業した後は大産大高の分校に教員として雇ってもらい、1年目から担任を持ちました。そういえば、マイクロバスで野球部の生徒を生駒山のグラウンドまでいつも送っていましたね。今考えれば、新卒の1年目にすごいことをさせていたなと思います。

 その後、勤めていた大産大高校の分校が「大阪桐蔭」に校名を変更し、新しく独立した野球部を作るということで、僕が部長になりました。当時、25歳か26歳だったのかな。今でこそ若い部長さんはいっぱいいますけども、当時はほとんどいなかったと思います。そしたら91年、創部4年目で夏の甲子園で初優勝しちゃって。母校のPLに少しでも近づけるかなと思っていたんですが、一部のOBからは「裏切り者」と言われました。

 僕は王者PLと切磋琢磨する存在を作ることが恩返しになると考えたし、また、それを凌駕するPLにも、いちOBとして期待するところがありました。だけど今、PL学園野球部の伝統が休部というかたちで一旦、途絶えてしまったことで、自分がやってきたことが正しかったのかどうか……考えさせられるところはあります。でも、PLが育てた人はいなくならないのでね。PLの炎は消えない。いずれ、良い話が聞けると信じています。僕は今、この履正社の専門学校で、高校を出た若者たちに、PLで学んだ野球を通じて人格形成と器作りをしっかりとしてあげたい。社会に出た後、色んな人からたっぷりと水を注いでいただけるような器を作ってあげたい。そういう風に思っています。

「今すぐ日本に帰れ」

 大阪桐蔭では、日本一になった翌々年に、野球部の部長からラグビー部のトレーニングコーチに配置転換ということになりました。高校生にスポーツを教えるのに、野球もラグビーも一緒やということで頑張りましてね。2年目には創部以来初めて、花園(全国大会)に行きました。結局、ラグビー部には12年間いて、最後は部長をしていました。今思えば、あそこでラグビーという競技に出会ったことが、僕の指導者人生を大きく変えることになりました。

 ラグビーって、純粋に、武器を持たずに身体と身体でぶつかり合ってね。終わった後は、もうその瞬間に一緒に酒を酌み交わして。花園で言えば、対戦チーム同士で一緒に風呂に入る。こんなスポーツはまずないですよね。まずはそのカルチャーに驚きました。

 また、ラグビー部では毎年、夏にオーストラリアのブリスベンというところに合宿に行っていました。今年、五郎丸(歩)選手がプレーしていたレッズというチームがある町です。ゴルフ場の中にあるロッジに宿泊していました。近くの芝生のグラウンドで外国人コーチに練習を見てもらうんですけども、そこでまた、カルチャーショックがあるわけです。日本の部活動は、野球も、ラグビーもそうですけども、大抵は指導者の自己満足であることが多いんです。言うとおりにできなかったら何時間でもしてるようなところがあるでしょう。意味もなく、ずっと走らせたりね。だけど外国人のコーチって、まずグラウンドに来て、「お前ら元気か」から始まって、昼の練習が終わったらランチを食べて、「シーユーアゲイン! ゆっくり休めよ」って言ってサッと帰る。

 でも日本の指導者はそれが物足りないから、外国人コーチの車が出た瞬間に部員を集合させて、また練習するんですよね。すると車が戻ってきます。さっきのコーチが怒り心頭で出てくる。「もう俺は教えない。お前ら、オーストラリアに来て、オーストラリアのやり方で勉強しないんだったら、日本で練習するのと何が違うんだ。今すぐ帰れ!」って。

 僕らが困っていると、「ついて来い」と。ゴールドコーストの、サーファーのいるようなビーチにラグビーボールを持って行って、海を目がけてボールをボーンと蹴る。「ほら取ってこい!」。学生が無邪気に取り合いをするのを見せて、「ラグビーってこういうもんや。楽しむもんやで」って。「楽しむ」というのは、日本人の思う気楽な「楽しい」ではなくて、「勝つために楽しむ」なんですけどね。とにかく学生たちには「お前ら、もうこんなクレイジーな指導者の下でラグビーはするな」と。そんな言われ方をしました。

 向こうの指導者を見ていると、自分も地面にはいつくばって、子どもと一緒に身体を張ってボールの出し方から教えてね。試合中にウチの部員がどこか痛めて倒れたら、その子のところまで駆け寄って行く。抱き上げて、「だから言ったやろ。これができないから、お前はこんなに痛い目するんや」。で、抱きしめてね。「痛かったやろ。大丈夫か?」って。それから外に出して、僕を呼んで「ちょっとアイシングしてやってくれ」と。情熱的です。でも、練習中に時間が来たら、「はい、ランチ」。もっと教えてくれと言っても、「ダメ、終わり。これだけやったらもう集中力がない」って。そのかわり、翌日、また一生懸命教える。無駄なことはしないんですよね。メリハリ、けじめがしっかりしているから、自発的にラグビーを楽しむ気持ちが子どもたちの中に持続するんです。日本には、こういう指導者はあんまりいませんね。

日本のスポーツはまだまだ変えなあかん。

 スポーツを取り巻く環境も全く違いました。向こうでは地域のクラブに芝生のグラウンドとクラブハウスがあって、朝から順にちびっこ、小学生、中学生、ユース、シニア……とラグビーをやっている。年を取った人も、子ども連れのお父さんお母さんも、車いすに乗った人も、みんながラグビーを楽しんで、バーベキューをしながら酒を呑んでね。よかったね、悪かったね、とやってるわけです。クラブハウスの壁には、クラブの歴史や伝統を伝える写真やユニフォームが飾られていて。僕の伝えたいイメージ、わかりますよね? そういう場所が、ひとつの街にいくつもあるんです。

 週末の夜は、プロの試合です。僕は向こうでオーストラリアとニュージーランドの試合を観に行きました。「これは野球は勝たれへんな」と思いましたよ。あれだけ世界中の人間が、試合前からスタジアムの周りで酒をベロベロに飲んで。で、試合になったら、昔の人を表彰するんです。何があっても、何万という人がまず昔の人に敬意を表して、そこからハカ(試合前の民族舞踏)が始まる。周りを見れば、こんなに小っちゃな子が、芝生にボールを置いて蹴っている。そんなところに日本は勝てないですよ。野球という世界しか僕は知らなかったんですけど、ラグビーという世界を見て、日本のスポーツはまだまだ変えなあかんところがあるなと。

 十何年間オーストラリアに行ったから、今の僕の野球に対するモノの考え方と、情熱があるんだと思います。今でもコーチ陣に「もっと練習やれます」という風に言われますけど、「あかん、終わり。ランチ」。「まだ時間あります」。「時間あってもいい。このグラウンド、誰が整備すんの?」。「いや、整備なんか後でも……」。「あかん、けじめ」。僕はそうやってます。PLの野球と、オーストラリアのラグビー。そんな血が色々混ざっているのが僕の指導かもしれませんね。

 いつも、もっと良いものを作りたいと思っていますよ。これからは、日本だけを見るんじゃなくて、色んなところに飛び込んで行く……そんな勇気を持てる学生も、育てて行きたいですね。

履正社の人:森岡正晃先生

もりおか・まさあき
1962年10月2日、大阪府大阪市生まれ。市立大宮中を卒業後の1978年、PL学園高校に入学し野球部に入部する。ポジションは投手。同年8月、同校が夏の甲子園で初優勝。3年時には主将を務めた。近畿大学に進学し、卒業後は大阪産業大学高校の分校に教員採用され、野球部のコーチを務める。1988年、同分校が校名を大阪桐蔭に変更するのにともない野球部部長に。1993年には同校ラグビー部のトレーニングコーチ、後に部長に就任。2006年より履正社医療スポーツ専門学校野球コースのGMを務める。最近の趣味は自宅の庭でのガーデニング。「今年の夏はメロン、ブルーベリーを育てました。花というのは、土は合ったものを、水はほどほどに。手取り足取り育てるけど、見守ってやることも大切なんです。そして成長して綺麗な花が咲いたとしても、蜂や虫が寄ってこなければ、実にはなってくれない。教育と一緒です。ただ、人生は80年かかるけど、花というのは半年で答えを出してくれる。そこが楽しいのかな」

text by Ippei Kamaya

履正社医療スポーツ専門学校
履正社医療スポーツ専門学校