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RISEI PEOPLE

履正社の人。

中岡 麻衣子

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中岡 麻衣子 Maiko Nakaoka

元サッカーコース教員

センセイは、元なでしこ。

12歳でLリーグの舞台に立ったかつての“天才少女”が
はじめて「なでしこジャパン」に招集されたのは2005年、
ハタチの春だった。それから11年の月日が流れて――。
当時の自分と年端の変わらぬ学生たちに、いま伝えたいこと。

2016年8月10日

 ピッチには強風が舞っていた。

 2007年4月22日の午後、東京・駒沢総合運動場では女子サッカーなでしこリーグのスーパーカップが行われていた。

 中岡麻衣子は前年度リーグ王者「TASAKIペルーレ」の一員として、強豪「日テレ・ベレーザ」を相手に左センターハーフで出場していた。

 2点を追う後半23分、味方にパスを出した直後のことだ。ボールを奪おうと仕掛けてきた相手エース・澤穂希のチャージが、体重が載ったままの中岡の右足を襲った、その瞬間だった。

「ブチッ」

 自分の膝が上げた悲鳴が、耳の奥で鳴った。

 中岡がその音を聞いたのは、高校時代から数えて3度目だった。だから、聞こえた瞬間に「それ」とわかった。

 ああ、切れた……。

 前十字靭帯断裂だった。

 周囲の景色がスローモーションのように感じられた。その場に崩れ落ちるまでのまばたきするほどの間に、中岡は夢にまで見たワールドカップ出場への道が絶たれたことをはっきりと悟った。

トイストーリーの、バズのタオル。

 2016年6月、大阪の履正社医療スポーツ専門学校・茨木キャンパスを訪ねた。現在、同校でサッカーコースの教員をしている中岡に会うためだ。梅雨の曇り空が今にも泣きだしそうな午後、「学校の遠征の準備に忙しくて」という彼女に、「あの日」のことを振り返ってもらった。

「まあ、ケガを含めてのサッカーですからね。上手い人はケガしないんですよ。私が好きなスペイン男子のイニエスタ選手、見てください。あんなに小柄やのに、ピッチの中央でずっと出場し続けてる。ポンポン、ボールをさばく。上手いんです」

 人生で3度目の前十字靭帯断裂は、結果的に、その後中岡が女子日本代表「なでしこジャパン」に定着できなかった遠因となった。それも、代表では中盤でコンビを組んだこともある国民的スター、澤のプレーが原因で。そのことを訊くと、笑ってこう答える。

「澤さん、めっちゃ良い人ですから。自分がはじめて代表に入ったときも、合宿中に誕生日プレゼントをくれたりして。トイストーリーのバズのタオル。今でも持ってますし。ま、しょうがないです。フフッ」

 スカッとした人柄が、こちらを安心させてくれる。

 中岡麻衣子は、「なでしこジャパン」という名称が公式に採用された翌年の2005年春、女子サッカー日本代表に選出された。20歳だった。精度の高い両足のキックと、コンタクトプレーの激しさを武器に、同世代の宮間あや(現・日本代表主将)、大野忍、近賀ゆかりなどとともにU-18、U-19の日本代表に選ばれてきた、世代の中心選手だった。

「特に(宮間)あやとは、小学校6年のときにアメリカで行われたユースの大会からずっと一緒です。あの子は当時から一人だけ、ずば抜けて上手かったですけど」

 当人は控えめに語るが、中岡も中学1年生でLリーグ(現・なでしこリーグ)1部「宝塚バニーズ」のトップチームにデビューした“天才少女”だった。12歳にして大人に交じって90分の試合に出場して給料をもらう、なかばプロのような生活を経験している。

「試合に出たら出ただけもらえましたし、得点決めたらまたもらえて、交通費も全部出て……。女子でもサッカーやってるだけでお金がもらえる時代でした。バブルやったんです。12歳の私に、お金が入った封筒を普通にポン! って手渡しで。まあいうたら、中学生の時から働いてたみたいなもんですよね。学校のテスト勉強をしたこともなかった」

「ガツンと当たるの好きなんですよ」

“中学生プロ”として日々を送っていた中岡に転機がおとずれたのは、3年生の時だった。

 チームの運営会社が不況のあおりを受けて撤退し、翌年から選手の給料や遠征費が支払われないことになった。それによりチームの中心選手が相次いで移籍を決断、これを機に現役を引退するという者も出た。

 中学卒業を控えた中岡は「サッカー一本」にこだわりたかったが、「高校だけは出ておいた方がいい」という周囲の強い勧めもあって、埼玉の強豪・本庄第一高校に進学した。

「今思えば高校に行けたことは良かったですね。私、多少ヤンチャやったし(笑)、先輩たちと一緒にチームメイトでやってきたから敬語も使えなかったし」

 だが、高校では左膝の前十字靭帯を2度も断裂し、長いリハビリ生活を経験することになる。

「はじめて膝の前十字を切った時のこと、よく覚えてます。中に血がパンパンにたまるんですよね。最初は『うわ、水がたまってるわー』って言ってたんですけど、病院に行って針で抜いてもらったら、ぜんぶ血で。付き添いに来てもらった顧問の女の先生がそれを見て、貧血でバーンって倒れました(笑)」

 サッカー人生を通じて彼女を悩ますことになる膝のケガは、果敢に相手に身体をぶつけるプレースタイルの代償でもあった。

「私、結構ガツンと当たるの好きなんですよ。ボール挟んでガチャン! ってなるのも全然怖くないし。膝をケガしてるのもあるから、周りの人は『見ててコワい』って言いますけどね。でもそこは外国人相手でも負けない気がしました」

 復帰まで半年以上を擁する苦しいリハビリを2度乗り越え、中岡は高校卒業後、地元・兵庫を本拠地とするTASAKIペルーレに入団した。すると持ち前のガッツで中盤の要としてみるみる頭角をあらわし、両足で正確なキックが蹴れる貴重な人材ということもあって、2005年、20歳の春に、晴れてなでしこジャパンに招集されたのだった。

 2006年はオーストラリアで行われたアジアカップ、そしてカタールのドーハで開かれたアジア大会に出場。アジア大会決勝の北朝鮮戦で、敗れはしたもののPK戦でゴールも決めた。

 明けて2007年は中国でワールドカップがあった。当然、中岡も代表メンバー入りを窺う有力候補の1人だった。しかし、本大会まで5カ月を切った春先に、冒頭の、致命的な大ケガを負ってしまう。それも高校時代に2度切った左ではなく、頼みにしていたもう片方、右の前十字靭帯だった。

「タイミング、悪いんです。私は結局、ワールドカップも、オリンピックも、その時期は全部ケガでプレーできなかったんですよ。どちらかだけでも出たかった、っていうのはありますね」

途方に暮れて、泣く人もいた。

 3度目の長いリハビリを経て代表復帰を目指した中岡に、またしても運命を翻弄するようなしらせが届いたのは2008年10月のことだった。

 所属クラブのTASAKIペルーレが事実上の廃部を決定。創部32年、全日本選手権制覇4度を誇る名門だったが、親会社である田崎真珠が経営難から撤退を余儀なくされたのだった。中岡にとっては2度目の「チーム消滅」だった。

「環境がすごく良かっただけに残念でした。午前中に少し仕事をして、お昼ご飯の後は夕方まで練習して、家に帰って、っていうリズムで生活できていたので。それでお給料も、ボーナスももらえる。当時はあまり、そういう恵まれた環境でやれるチームはなかったんです。だから途方に暮れちゃって。チームメイトの中には泣いてる人もいましたね」

 社業に専念するという仲間もいたが、中岡にはサッカーをやめるという選択肢はなかった。声をかけてくれた複数のクラブで迷った末、入団先として選んだのは「地元に近い」大阪のスペランツァ高槻だった。だが結果として、その選択がまたしても裏目に出てしまう。

 2009年シーズン、リーグ開幕前に右膝のボルトを抜く手術をした影響で、復帰を果たしたのは夏だった。そこから1軍メンバー入りを目指したものの、リーグ戦では中岡が出場する機会のないまま、チームは2部に相当するチャレンジリーグに降格してしまったのだ。

 今でこそ女子サッカーの裾野は広がりつつあるものの、当時、1部と2部のレベルの格差はとても大きかった。膝のケガの不安を抱える中岡がどこまでやれるか、日本代表としてもう一度やれるのか、それを見定めるには、当時の「チャレンジリーグ」はおよそ不適当な舞台だった。中岡がもう一度なでしこジャパンに復帰する可能性は、その時点で限りなく低いものになってしまった。

「お前、この3年間で……」

 2011年、なでしこジャパンはワールドカップの舞台で優勝を遂げた。エースの澤穂希を筆頭に、宮間あや、大野忍、近賀ゆかり……。宿敵・アメリカを死闘の末に破り、一躍「時の人」となった中心選手のほとんどが、昔から共に戦ってきたチームメイトだった。だが本来、選手として油の乗り切った年齢であるはずの中岡は、そこにいることが許されなかった。

「そうですね。いたかったです。自分もそこにいたかった」

 悔しくなかったですか? ぶしつけな質問に、中岡は「いたかった」と返答した。

「あのワールドカップの後、かなり環境が変わりましたからね。テレビで試合はやってくれるし、みんなバラエティ番組とかにも出てるじゃないですか。ズルいぞ! ってたまに思います(笑)」

 2012年、中岡はリーグ1部のアルビレックス新潟レディースに移籍した。負傷とリハビリを繰り返した両膝は放っておくとすぐに水がたまり、もうボロボロだったが、最後にもう一度、高いレベルで自分がどこまでやれるか試したかった。

 待っていた現実は甘くなかった。

「ダメでした。新潟のコーチの人に言われたのは、『お前、この3年間でだいぶ落ちたな』って。実はTASAKIがなくなる時に、その人に誘ってもらってたんです。たしかに膝は言うこと聞かへんし、体力もないって自分でも実感して。『これは厳しいな』と」

 3年前にチームとしてレベルの高い新潟を移籍先に選んでいれば、また違った展開があったかもしれない。そのことが、唯一の心残りだと中岡は語る。

「私も2部でいろんな経験をしてきたつもりでしたけど、ことサッカーのことに関していえば、やっぱりワールドカップに出た彼女たちの方がレベルアップしてたのかな」

 その年の冬、中岡麻衣子はきっぱりとサッカーをやめた。長年にわたる膝との闘いももう終わりだった。

 12歳の天才少女は、28歳になっていた。

「あんたら、そこそこできるやん」

 履正社医療スポーツ専門学校の茨木グラウンドは、大阪府茨木市の中心部から車で北に20分ほどの山麓にある。中岡はいま、自宅のある兵庫県の猪名川町から車でここに通勤し、学生にサッカーを指導する日々を送っている。緑のあかるい人工芝のピッチで生徒とふれあう姿は若々しく、にわかには教員だと見分けがつかないくらいだ。

「そうですね、たぶん、仲が良すぎるんでしょう(笑)。たまに自分も入って練習するので」

 集合写真の撮影をお願いすると、生徒たちが“ノリノリで”写り込んでくる。

「センセイ、悪いけど私がメインやで!」

「アホか、あんたらはボカシてもらうわ!」

 練習が終わった後は車座になってストレッチをしながら、ガールズトークに花を咲かせる。彼女たち、中岡が率いる「履正社FCレディース」は、専門学校のチームでありながら関西女子サッカーリーグ3部に所属している。7月下旬現在、6勝2分で負けなしの首位。目標は2部への昇格だ。

「最初はどうなることかと思ってたんですけどね」と中岡はいう。

「チームを持ったはいいものの、人数が少なくてまともな練習もできなかったし、試合に遅刻してくる学生もいて。『おいおい、そこからかよ!』って。でも1年1年、試行錯誤しながらやって、今年で3年目。ようやく人数も増えてきて、今は『あんたら、そこそこできるやん』になりました」

 中岡はもともと、「指導者になるつもりはまったくなかった」のだという。

「サッカーをやめてから1年間、実家の近くのゴルフ場で働いたんです。カートを運転したりしてました。でもほら、ゴルフ場って、冬とか、人が来ない時は全然来ないでしょう。そんな日は時間が過ぎるのがあまりにも遅くて。『やめようかなあ』って、ある日友達と食事をした時に話してたんですよ。そしたら、その友達が『事情があって私も仕事を辞める』ということを言い出して。『なあ、私の代わりにやらへん?』って誘われたんです。それがここの学校の先生で、私の前任者(笑)。ちょうど、『やっぱりサッカーにたずさわりたい』という思いが強まっていたタイミングだったので、『やってみよかな』と」

 6歳から続けてきたサッカーだ。自分が人生を捧げてきた競技の楽しさを伝えられるよろこびをいま、感じている。

「なでしこがワールドカップで優勝したおかげで認知度が上がって、競技人口も増えたのはいいことですけど、最近はちょっと敷居も上がっているような気もするんです。高校を出た後に、『自分は上手くないから』『なでしこにはなれないから』ってサッカーをやめてしまう子も多い。でも、ウチはサッカーが好きやったらそれでいい。『一緒に練習しようよ』って誘います。高校ではちゃんとサッカーをやってなかったような子もいますけど、十分練習できる環境があるし、やっぱりどんどん成長しますから」

 十ほど歳の離れた学生たちは、みな20歳前後。初めて自分がなでしこジャパンに選ばれた頃だ。

「今思えば、あの頃は恵まれた環境にもっと感謝せなアカンかったのかな、って思います。時間に余裕がある時期って人生でも限られている。その時期にもっともっと自主トレを頑張ったり、ケガをしないプレーを磨いたりしていたら、ずっとサッカーできたんじゃないかな」

 所属チームが2度消滅し、膝の大ケガに3度見舞われたサッカー人生だった。悲劇、と人はいうかもしれない。それでもリスタートを切った中岡の姿を見ていると、「それもサッカーですから」というスカッとした彼女の言葉が聞こえてきそうだ。

「最近は、ホンマに時間が過ぎるのが早いですね。指導者って面白くて、たとえば生徒にきついことを言ったとき、『自分がこの子らの年齢の時は、コーチにどういう態度してたかなあ』とか、考えるんです。ウチの子たちは結構言うことを聞いてくれるので、すごくかわいいんですけど、言ったことを本当にわかってるのか、わかってないのか、聞き流してるのか、すごく気になる。自分が全然言うことをきかなかったタイプだけに(笑)、悩みます。まあ、なんというか……ちょっと楽しくなってきたかもしれません」

中岡 麻衣子 なかおか・まいこ

1985年2月15日、兵庫県尼崎市生まれ。5歳でサッカーを始め、Lリーグ(現なでしこリーグ)の宝塚バニーズ・ジュニアに入団。97年、中学1年でトップチームに昇格を果たし、リーグ戦初出場。本庄第一高校を卒業後、03年にTASAKIペルーレ入団。各年代の日本代表を経験し、05年、なでしこジャパンに初招集。06年のアジア杯、アジア大会などで活躍した。その後スぺランツァ高槻、アルビレックス新潟レディースを経て、12年のシーズン終了後に現役引退。リーグ通算63試合出場、日本代表通算14試合出場。14年、履正社医療スポーツ専門学校の非常勤講師に招かれ、16年より専任教員をつとめる。最近の趣味はボーリング。「でもマイボールとか持ってないです。ボーリング場行って、そこに置いてある球をガッとつかんでバコーン! ぜんぶ直球です。160点は出ます」

写真/平野愛 文/釜谷一平

※所属・肩書きは取材時点のものです

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